私は昭和43年に宇都宮女子高等学校を卒業しました旧姓前田洋子と申します。もう卒業してから50年以上にもなりますが、宇女高の教育は私にとって、とても掛け替えの無いものでした。そして皆さんの中にもそう思っている方が多いのではないかと信じています。

現在はカナダに住んでいるので、皆さんの中には私がどうして日本を離れ、カナダでどんな生活をしているのかと興味のある方もいらっしゃると思いますので、ここで説明させていただきます。でもその前に、今までの私の人生を振り返って、とても大切であった三つの言葉を皆さんと分かち合いたいと思います。何故なら、これらの言葉をいつも心に留めておいたお陰で私の人生は信じられない程充実したものとなったからです。まず最初の言葉は、

世界を見てきなさい。という、ある神父様のお言葉です。そのお言葉をもとにして随分前に「空を飛べ」と題した絵を描きました。着物を着た女性が空を飛んでいる絵、その絵に私が記した言葉は、

「乙女よ空を飛べ、何事も恐れず空を飛べ、空は無限、そして貴女の未来も。」

その絵を私のウェブサイトの最初のページに掲載しましたので皆様もご覧になったことと思います。そして二つ目は、いつも感謝の気持ちを持つこと。人間は一人で生きているのでは無いので周りの人や他人に尽くせば、それが必ず自分に戻ってくるというのが私の信念です。

三つ目は、一度決めた事は絶対に後悔しないこと。その時は上手くいかなくてもその経験を元にして、努力すれば必ず良いことが有るのです。

以上の三つの言葉です。  

それでは、それらの言葉を踏まえて、私のこれまでの経緯を説明させて頂きたいと思います。

私は宇女高を1968年に卒業してから、その頃かなり有名だった、東京のある作曲家の家に友達の紹介で就職しました。仕事の内容は家事の手伝い、でも仕事の合間には学校にも行かせてくれると約束してくださったので働くことにしたのです。その頃の私の家は大学に行かせてもらえるほど余裕が有りませんでしたので、そこで仕事をすれば家事の経験にもなり、その上学校にも通える。これほど良い機会は無いと思いました。ところが、その作曲家は日に日に忙しくなり、私などが学校に行けるような余裕は少しもありません。その上、奥様が妊娠したため子供ができたらもっと家事に縛られるのではないかと恐れ、私は6ヶ月後にその家を辞め、東京のある会社に事務員として働き始めたのです。その会社に雇われた理由の一つは日本語のタイプや英文タイプのクラスを宇女高で取った経験があったからです。

そして間もなく、YMCAで夜に週三回ほど通い英会話を習い始めました。私の小さい頃からの夢は外国を旅行すること。そのために英語を話せるようにしたいと思ったからです。でもその頃の会社は6日制、夜も時々残業があり日曜まで駆り出されて、何ヶ月か後には、そんな生活がとても苦しく思えてきました。最終的には毎日の忙しさに疲れを感じ、「私はこんな生活をするために生まれてきたのではない。それなら何故生まれてきたのだろうか?」と自分自身に問いかけ始めたのです。

そんな思いで悩んでいる時に、カトリックの教会の前を通り、宗教からその答えを得られるかもと思い始め教会の門を叩きました。その教会を通して、後日鎌倉で黙想会があり、それに参加する事にしたのです。その時に逢ったカナダ人のロジェ神父様が人生についてこんな説明をしてくださいました。

「人生には始め(生)と終わり(死)があるが、誰もが終わりに辿り着くまでに同じ道を歩むのではない。ある人は日常何も変わったことも無く単純に生活し、ある人は色々な事を経験し充実した人生を送る。そしてある人は突拍子もないことに挑戦し、それ以上に人生を豊かに生きている。貴女達はまだ若い、世界を見てきなさい。というのが神父様のお言葉でした。

私はその言葉にかなり影響され、数ヶ月後に日本を離れ、ソ連(現ロシア)のウラジオストクからシベリア鉄道にてヨーロッパに女一人で旅に出たのです。北欧、中欧、南欧と旅をしている間に、スペインのセルビアでカナダ人(現在の主人)と出会い、、その日から54年間ずっと彼と一緒にカルガリーという所で暮らしています。不思議な事に主人も私と同じ年、宗教も同じで、私がスペインで会った時には単独でヨーロッパ旅行をしていました。

カナダに着いて2ヶ月後に私達は結婚し、子供を2人授かり、最初の3年間は何事もなく過ごしました。主人はその頃建築会社で働き、冬になると時々零下30度にもなる厳しい気候の中、外で仕事をする事も有りました。そんな経験を長い間続けなくて済むように、主人は先生を目指してデパートでパートタイムで働きながら大学に通い始めたのです。その時、私は家計を支えるためにウェイトレスとして働き始めました。そして時々、その仕事だけでなく、ラウンジでギターを弾きながら歌を歌わせて頂いたり、日本人の観光客のガイドをしたり、毛皮屋さんの店員をしたり、そんな仕事をカナダの東にあるナイアガラの滝まで(飛行機で片道4時間)遠出して主人と子供達のために必死で働きました。

主人も無事4年間で大学を卒業しましたが、残念ながら先生の仕事はカルガリーではあまり無かったため保険会社に就職しました。私はその頃にはカルガリーのある石油会社で秘書として働き始めていました。この時も宇女高で英文タイプを習った事がとても役に立ちました。仕事、家事、育児と毎日忙しく暮らしていましたが、主人が大学を卒業したなら、私も主人の妻として堂々と生きていくために教育が必要だと思い、カルガリー大学に通い始めたのです。高校を卒業してもう18年程経っていたので学校に戻るのがとても不安でした。でも、大学に入って気づいたのは、宇女高の教育がどれだけカナダの高校に比べて進んでいたかということです。大学一年生の数学は、宇女高で学んだことを復習していたようにさえ感じられました。お陰様で数学では良い成績が取れました。最も他の科目は私の未熟な英語で対応するにはとても難しく、かなり苦労しましたが… 

皆さん、このあたりでお気づきになったことと思いますが、その頃の私の生活は東京に住んでいた頃以上に忙しい毎日を過ごす事になってしまったのです。大学に行っている間も仕事は辞めませんでしたから卒業するまでに9年間費やしました。それでも勤めていた会社に役に立つPLM(ペトロリアㇺ、ランド、マネージメント)の卒業証書を受け取ることができました。でも人生はローラーコースターの様なもので、生活に上がり下がりが激しく、いつも良いことばかりが有ったとは言えません。ですからその度自分の選択肢が本当に正しかったのだろうかと迷った時が何度も有ります。でもその一つ一つの決断に後悔せず、非常に苦労はしましたが、ただ一筋に主人と子供達と一緒に歩んできました。

主人の方もある保険会社で、後々には教育部門を任されただけでなくディレクターにまでなり、私達の生活は年を重ねるごとに良くなっていきました。その間、時々私が何か新しい事をしたいと主人に話しても彼は私を止めることも無く、いつも励ましてくれたのです。そんな主人には心から感謝しています。

私の方と言えば、英語が堪能でなかったにも関わらず、スーパーバイザーやコーディネーターの仕事を頂いて、大学卒業後は、契約書分析者として、その後も石油会社で20年以上働かせていただきました。その間、仕事だけでなく、趣味の沢山あった私は多種の絵を描いて慈善事業をしている色々な組織に寄付をしたり、その組織の中でボランティアとして何十年も働いたり、時々基金活動の指導をしたりもしました。1988年には、カルガリー冬季オリンピックのホストまでさせていただきました。その上、カトリックの教会の聖歌隊の一員として毎週日曜に歌い、時々独唱させていただき、聖歌隊の指揮も任された事も有ります。現在はその聖歌隊のミュージシャンと一緒に楽譜の読めない人達のために、全50曲を目指して、アルトやテナーも入った讃美歌のレコーディングを継続しています。

子供達が小さい頃は日本語学校で先生をした時期もあり、その学校が催したバザーのコーディネーターをした事もあります。その上、自分の趣味である作詞作曲もし、その中から何曲かを選び2枚のCDに収めてリリースし、その利益を全部、家の無い子供達やその家族達に寄付しました。YouTubeにも作曲した幾つかの曲をビデオにして掲載したことも有ります。そして“Don’t Give Up” という曲の一部がバンクーバーのテレビ局のドキュメンタリーに使われた事も。

最近では、人種差別、麻薬使用反対等のテーマに関してのミニストーリーを書き、今までに描いた絵や主人の撮った各国々の写真をこのウェブサイトに掲載しています。そして私達が歩んできた人生を子供達や孫達に知ってもらいたいという思いで多種のエッセイも書き始めました。どうしてかと言いますと、私達は自分達の父母の若い頃の過去をほとんど知りませんでしたから… そんなエッセイも時々日本語で書いています。テレビでは日本の番組を見ることは有りますが、もう50年以上日本を離れていて日本語を話す機会が全く無いので、完璧な日本語では書けないのも事実です。でもこんな所でも、漢字などを丁寧に教えてくれた宇女高での経験が役に立っているのですから、とても感謝しています。定年後は、それまで以上に旅行をし、75歳になるまでに75ヶ国を訪れるという私達の夢を叶える事ができたのです。こんな事を書き続けると、私達の自慢をしているだけのように聞こえるかもしれませんが、そうではないのです。これこそ私達が空を飛んだ証なのです。何事も恐れず、一つ一つ挑戦していたら、こんなに沢山の経験をする事ができました。

今考えたら、私たち二人の人生はロジェ神父様の言っていた突拍子のない道を選び、その一つ一つに挑戦し、ここまで来たように思います。最も75年間も生きているからこそ、こんなに沢山の事ができたのだとも思っています。とにかく私達の最終的な目的は、亡くなる前に自分達の人生を振り返って、何一つ悔いのない生活を送りたいという事です。

二人とも2016年に定年退職しましたが、あまり裕福でなかった昔から必ず続けてきたことが一つ有ります。前にも触れました通り、慈善事業をしている多種の組織や、また最近では災害に遭った被災地に寄付をしている事です。日本にも時々カナダの赤十字を通して寄付をしています。それは何も縁のない人々を助けることによって、自分達も幸を得ることができると心から信じているからです。お金を寄付したからと言って、お金が戻ってくる事を期待している訳ではありません。本当の事を言うと、子供達、孫達 そして自分達の幸福のための保険金を払っているような気持ちで毎年色々な所に寄付をしているだけなのです。それは自分達の恵まれた毎日の生活に感謝の気持ちを示していることなのです。

感謝といえば、宇都宮女子高校の先生方、スタッフの方々には今でも心から感謝しています。こんなに素晴らしい高等学校に通えた私は本当に幸せ者だと思っています。

皆さんも色々な面で空を飛び、何事にも感謝の気持ちを持って、過去に起きた事を後悔せず思う存分貴女らしく生きてください。そうしたら、主人と私の様に充実した一生を送れる事と思います。最も皆さんの中には、もうその様に生きてきて、人生をもっともっと豊かに過ごして居る方も沢山いらっしゃるでしょうけれど… 

でもどんな風に人生を送ろうと思っていてもまず健康でいなければ何もできません。ですからまず第一に、お体を大切になさってください。

2024年5月31日

前田洋子(Galvin)