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愛、恋、旅、そして恋愛 (ある女の物語Ⅰ)
You and I (第七章)
スペインの南方にあるセビリアは、オペラの”カルメン”や“セビリアの理髪師”の舞台となった有名な街。彼女はセビリアの駅で汽車を降りると、前日調べておいた宿泊所を探すために繁華街を離れ、ダアダルキビール川(大いなる川)を探しました。彼女が泊まりたいペンションがその川の向かい側にあるからです。やっとその川を見つけ、近くの橋を渡り始めると視野には風格のある何本もの橋が左右に見えてきます。幸いにも彼女の選んだ橋を渡るとすぐ探していたペンションが有りました。そのペンションは中世期の建物で、スペインには珍しくない真四角の天井のない中庭があり、色とりどりの季節の花々が太陽の光に直接照らされて咲き乱れています。受付で出迎えてくれたのはクラークにしては若過ぎる位の男性で、彼女が日本人だと知るととても親切に応対してくれました。
チェックインを済ませた後、荷物を部屋に置き、早速彼女は橋を折り返し渡ってセビリアの街に向かいました。スペイン広場(Plaza de Espana)に行きたかったからです。広場につくと半円形に幅広く建てられた茶色い建築物が目の前に現れます。その建物は1929年にセビリアで開催された万国博覧会の会場施設として建築されたのだそうですが、なぜか中世期の趣があり、左右にどこまでも広がるパノラマ状の回廊がとても印象的でした。その建物を端から端まで歩きスペイン各県の歴史的な出来事を描写した壁画タイルの絵を鑑賞しました。その建物は現在はアンダルシア政府の事務所として使われているのだそうです。
次に向かったのはセビリア大聖堂です。このゴシック建築の教会は、大きさでは世界第三位の大聖堂とも言われており、中に入り天井を見上げると、多数の煌びやかな大きなアーチで内装されていて、そのアーチからは建物の大きさに負けないほどの豪華さを感じます。そしてその教会の中には北アメリカを最初に発見したコロンブスのお墓まであったのです。コロンブスの棺は当時スペインの王様だった4人の像の肩にしっかりと担がれていました。その光景はとても厳粛な雰囲気を醸し出しています。彼女がセビリア大聖堂の中を歩き続けると、天井まで届きそうな、かなり高い柵で囲まれた立ち入り禁止のサンペドロ礼拝堂にたどり着きました。どちらの方向を歩いても礼拝堂があります。彼女はセビリア大聖堂のとてつもないほど広い空間に圧倒されました。
ペンションに戻ると朝受付を担当していた若い男性がまだ仕事をしています。簡単に挨拶をして部屋に戻ろうとすると、もうすぐ仕事が終わるのでダンスホールに一緒に行かないかと彼女はその男性に誘われました。最初はこの旅行中に何度も怖い経験をした事を思い出し多少戸惑いましたが、それでも彼の誘いに応じることにします。とても親切で穏やかな人柄を持つ彼なら心配ないと思ったからです。彼の名前はマヌエル。ペンションのオーナーの息子でお父様の仕事の手伝いをしているのだと彼女に伝えます。そしてまだ学生で19歳だというのです。ダンスホールにつくと二人はまず簡単な食事をし、多少のお酒もたしなみました。ダンスフロアで踊り始めると彼の女友達や、男友達が何人か加わってきて、その度に彼はその友達を彼女に紹介してくれたのです。彼女は皆と一緒にダンスをしたり会話をしたりして、とても楽しいひと時を過ごしました。マヌエルは最初から最後まで紳士らしく彼女に接してくれたので、旅行中に逢う人達が皆こんな風だったらいいなと彼女は心の中で思います。そんな稀にない経験は彼女にとって、とても楽しい思い出となりました。
翌朝、またダアダルキビール川に掛かっている橋を渡り小さな教会を幾つか訪れました。その時彼女が気が付いたのですが、今まで訪れたヨーロッパや日本の教会では祭壇にキリスト像だけが真正面に在りましたが、セビリアの小さな教会には色鮮やかな出で立ちをしたマリア像がどの教会に行っても祭壇に備えてあるのです。そういえば、グラナダでもキリスト像でなく、マリア像を掲げたお祭りを見たことが有ります。スペイン人にとってはマリア様は息子のキリストと同時にとても尊い存在なのだと彼女は思いました。
2日間のセビリアの観光を満喫して、その晩、マドリード行きの夜行の汽車に彼女は乗ることにしました。マドリードは首都であるだけでなく、スペインの真ん中に位置しているので、鉄道を使う旅行者の多くはマドリードで汽車の乗り換えをします。彼女も次の目的をまだ決めていませんでしたが、一度マドリードに戻ってからどこへ行くか決めようと思っていました。その晩、夜汽車の中で眠ることになるので寒くないようにと少し厚めの白いセーターを着、ジーンズをはいて彼女は駅に向かいました。そして汽車に乗ると空いている席を探すためにコンパートメントのドアーを一つ一つ開け、中を覗きます。最初はどの部屋も一杯でしたがやっと何席か空いているコンパートメントを見つけて中に入りました。その部屋にいる乗客の幾人かは長旅を始める興奮からでしょうか、大きな声で話しています。そんな中で彼女は運命の人と出会ったのです。
彼はくすんだブロンドの髪を肩まで伸ばし、髭もヒッピーの様な出で立ちでとても背の高い若い男性でした。ジーンズと灰色の生地に青い花模様が描かれたTシャツ、そして茶色のブーツがよく似合う、ヘイゼル色の眼が印象的な男性です。「ハロー」と笑顔で挨拶をし、初めてお互いの眼を合わせた瞬間、彼女の胸が何故かドキドキしてきました。その上、たまたま彼の隣の席が空いていたので、彼女はその席に座ることになってしまったのです。ヨーロッパ旅行を始めてから何人もの若い外国人男性と会話をしてきている彼女です。特にドイツのウルフガングやフレッドなどとは一週間も一緒に旅をしました。でもどんな男性からも、初めて逢った瞬間にそんなに心がときめく程の感情を持ったことはそれまで有りません。神父様や東京の彼に初めて逢った時さえも。それなのに、その男性にだけどうしてこんなにも心が動揺しているのだろうと彼女は不思議に思いました。彼と話しを始めても彼女の胸のトキメキは収まりません。気持ちが動揺している中、彼女はどうにか自分を紹介し、1か月半前に日本から来たのだと彼に言うと、同じように彼も彼女に応対します。彼の故郷はカナダで、ヨーロッパ旅行を始めてからもう7か月近くになるのだと。彼は彼女が英語を理解できるよう、ゆっくり、そして丁寧に英語で話してくれます。そんな気遣いにも彼女は心を惹かれました。
そのコンパートメントも満席になり、もう深夜も過ぎたので電灯は消され、同室していた乗客は皆眠り始めました。彼女といえば、日中にセビリアの街をかなり歩いたのでとても疲れていたにも関わらず、すぐ隣に座っている彼が気になり眠りにつくことができませんでした。それに気づいた彼は、自分でその時使っていたテープレコーダーとイアフォンを彼女に渡すと、
「この音楽を聞けばきっと心が落ち着くよ。」
と、優しく彼女の耳元に囁きました。そのテープには、その頃有名だったビージーズの歌が何曲も録音されていたのです。彼らの素敵なハーモニー、彼が言った通り、何故か心休まる歌声... でもそれを聞いても彼が気になって、気になって、一睡もすることなく夜明けを迎えました。信じられない事に、彼も彼女のことが何となく気になり眠れなかったと翌朝彼女に告白しました。初めて逢ったその瞬間から二人は恋に落ちてしまったのです。
日本人の彼女、カナダ人の彼、2人とも母国で仕事を辞めて長期のヨーロッパ旅行に来ていました。同じ20歳のカトリック信者で、偶然にもその汽車に乗り合わせた… 信じられない奇跡のようなその時の出会いが、2人の人生を一変してしまったのです。
You and I
You and I, two strangers off to see the world.
You and I, fate brought us together.
I never thought I’d come this far, to fall in love with you.
You are here just like my dream, holding me in your arms,
You and I.
You and I, worlds apart till now.
You and I, Love brought us together.
I never thought you’d come this far, to fall in love with me.
You came into my world, made my life complete.
You and I.
それが二人の旅の始まりでした。マドリードで汽車を降りてまず駅の洗面所でリフレッシュし、近くにあるレストランで朝食をとることにしました。そのお店はレストランというよりは日本のスナックバーの様なお店で、壁にはアルコールの入った瓶が棚にたくさん並んでいます。彼の勧めるカフェコンレーチェとクロワッサンを2人分頼むと、ウェーターがすぐクリームの沢山入ったコーヒーと、外側がパリパリでちょっぴり甘い、大きなクロワッサンを運んできてくれました。彼女の真向かいに座っている彼は、そのクロワッサンの片端を千切ると、それをカフェーコンレーチェに浸しながら美味しそうに食べています。彼女も彼の真似をして食べてみたのですが、そのコンビネーションの美味しいこと。こんな食べ方は初めてだと心の中で思いながら楽しく味わった彼女でした。クロワッサンはその時から彼女の大好きな朝食の一つになり、その後どこに旅行に行ってもレストランでの朝食にはクロワッサンを注文するようになりました。でもその後どんなに高級なレストランに行っても、あの時ほど美味しいクロワッサンを口にしたことが無かったように思えます。心惹かれる彼と一緒に初めて食べた食事だったからかもしれません。
二人は時間も忘れてそのレストランで話し続けます。彼女が片言の英語で話しをしても彼は全く気にもせず、とても辛抱強く彼女の話を聞いてくれます。そんな優しい彼の眼をただ見つめているだけで彼女の心は弾みました。時々見せる彼の笑顔が彼女を幸せな気分にしてさえくれるのです。たった一晩汽車の中で隣り合わせに座っていただけなのに、どうしてこんなにも気になる存在になってしまったのか、とても理解に苦しむ彼女でした。二人の会話は、まずお互いがそれまでヨーロッパのどこの国を訪れてきたのかから始まり、なぜ母国を離れて長期旅行に来たのかなどということまで話し続けます。そしてその後、彼がなぜ昨夜の夜汽車に乗ったのか彼女に説明してくれました。彼は本当はリスボンからセビリアへ、そしてセビリアで汽車を乗り換えてバルセロナに行く予定だったのだそうです。ところが、汽車が何らかの理由でセビリアに着くのが遅れたため、バルセロナ行きの汽車に乗り遅れ、急遽、彼女が乗っているマドリード行きの汽車に乗り合わせたのです。彼にとって不運なそんな出来事が二人を巡り合わせてくれました。そして彼はこんなことも彼女に話しました。数か月前、ニース(フランス)で、旅行中に知り逢ったある友達に誘われて彼は穏やかなビーチで野宿をしました。ところが安全だと思っていたその場所は、思っていたより危険な場所で、眠っている間に彼も彼の友達も所持品を全部盗まれてしまったのだそうです。そういう訳で、その後は着替え、洗面道具、そして軽い毛布一枚だけを持って旅行をしているのだとか。幸いパスポートとお金だけは肌身離さず持っていたので盗まれずに済んだのだそうです。その話を聞き、そんな経験をしてきた彼が何となく可哀想にさえ思えました。
朝食も終え、二人はそのレストランを出ることにしました。会計をする時点で彼が彼女の分まで払おうとしたのですが、彼女は財布から自分が食べた分のお金を出し彼の手に渡しました。お互いに旅をしている身なのだから、自分の分はきちんと払うべきだと勧めたのです。彼は少し驚いたのですが、納得したようにそのお金を彼女から受け取り自分の分も足してウェーターに渡しました。後で知ったことですが、そんな彼女の気配りが彼が彼女に惹かれた一つの理由だったのだそうです。朝食代の支払いも終わり、レストランの外へ出たのですが、彼女の胸の中では彼と別れたくないという気持ちで一杯でした。そんな時彼が、
「君はマドリードは一度来ているんだよね。もし良かったら前に泊まった宿泊所を紹介してくれないかな。君に迷惑が掛からないなら、宿泊代を節約するために部屋をシェアをしてもいいんだけれど。」と、彼は言いました。
彼女は以前、ある日本人の男性とマドリードで一つの部屋に泊まったことがありました。その時に嫌な経験があったので彼の提案を最初は躊躇しましたが、これまで逢った他の若いヨーロッパ旅行者達もシェアしている人が多く、これまでの彼女の経験は稀であり、たまたま悪い人に巡り合っただけなのだと自分の心に言い聞かせました。そして、その宿泊所を二人でシェアをすることに同意しました。最も、彼といつまでも一緒にいたいと思う気持ちが彼女のそんな決心を促したのかしれませんが。駅から少し歩いてそのペンションにつくと二人はパスポートを受付に渡し、チェックインを済ませました。そして部屋に入ります。その部屋は結構広く、ベッドが二つあります。彼は荷物を部屋の片隅に置き、窓側のベッドに横たわり、持っていたタイムマガジンを読み始めました。彼女も荷物をもう一つのベッドの脇に置き、日記を書いたり、前日何にお金を使ったのかなどという情報をメモしたりします。そのうちどちらが提案したわけでもないのですが、二人はお互いのベッドでぐっすりと昼寝をしてしまいました。何しろ二人とも一晩中寝ていないのですから… そして昼寝から起きると、驚いたことに彼は洗濯を始めました。カナダからもってきた着替えがみな盗まれてしまったので、時々宿泊所に泊まる時は、それまで着ていたものを洗わなければならないのだそうです。
疲れも取れた二人は散歩に出かける支度をし、マドリードの公園や街並みを歩きました。マドリードの格式あるホテルの前を通ると、英語のアルファベットを一つずつ記した白い旗がホテルの壁の上に左から右にと掲げられていました。立ち止まって読んでみると、その時のアメリカの大統領ニクソン氏がそのホテルに宿泊したと書いてあったのです。やはり大統領となればこんなに素晴らしいホテルに泊まるんだなと二人は感心しながらそのホテルの前にあるドン・キホーテの像を訪れます。その後食品店でパン、トマト、そしてサーディンの缶詰と飲み物を買い、お店の近くの公園のベンチで食べました。その後も二人で何処というわけでもなく散歩します。夕食にはペンションの近くにある公園の前のレストランで食事をしたのですが、ビールとコカ・コーラを彼が注文すると、ウェーターは、いとも当たり前のようにビールを彼の前に、そしてコカ・コーラを彼女の前に置いてキッチンに戻りました。そうすると彼女はちょっぴり恥ずかしそうに微笑むと二人の飲み物をそっと交換し、ビールを飲み始めます。どうしてかというと彼女がビールを、そして彼がコーラを頼んだのですから。ウェーターが食事を持ってきた時に飲み物が交換されたことに気付き、驚いた顔をします。それを見て二人は苦笑しました。もちろんウェーターが居なくなった後からですが。夕食はサラダと野菜のたくさん入ったシチューを食べました。食事が終わる頃にはもう十時を過ぎていたのですが、その公園では小さな子供達が日中でもあるかのようにはしゃいで遊んでいます。その子供達の一人に彼女は目を向け、驚きました。白いドレスを着ていた可愛らしい3歳ぐらいのその女の子の両耳には、ダイアモンドのようなイアリングが着けられていたのです。そのイアリングは街灯の光を受けてキラキラと輝いています。あんなに小さな女の子がイアリングをしているのは、あの頃の日本では絶対に見られない光景でした。
その後二人はマドリードで二泊しましたが彼はその間、彼女が女性である事の弱みをつけることもなく、いつも紳士的でした。そんな彼の態度に彼女はそれまで以上心惹かれます。初めて会った夜から二人はお互いを触れることなく接していたのですが、その反面、心の距離はどんどん縮まり、一緒にいることがとても自然に感じたのです。そんな二人はマドリードを去っても一緒に旅行することを決心しました。そしてまだ訪れていないスペイン東方のバレンシアに夜汽車に乗って向かうことにしたのです。バレンシアに着くと彼等は街並みを歩き、夕食後、公園で夕日が沈むまでのんびりと過ごしました。夜行列車を使う一つの弱点は何度乗った経験があってもあまり熟睡できないので、日中に少し疲れを感じることです。ですから公園のベンチでゆっくりと過ごすことが体を休める一つの手段でもありました。彼女が一人で旅をしているときはその地のあらゆる名所を一つでも多く訪れなければと努力していたのですが、彼はそんなことには気遣いもせず、それよりその国の人々の暮らしや習慣を見るほうがもっと興味があるといっていました。ですから彼女の旅は彼と逢ってから一変しました。でも彼女はどこで時間を過ごしていても大好きな彼と一緒にいられるのなら幸せです。バレンシアの西の空に夕日が沈む頃には、手をつないで街を歩いている二人がいました。
次に向かったのはバレンシアより少し北方にある港町のバルセロナです。駅から街の方に歩いていると、有名なパセジ.デ.グラシア通りがあり、その両脇に並んでいる素敵なお店や、通り行く人達の行きかう賑やかさを二人は味わいました。この街は彼の方が少し前に一度訪れていたので、夕飯には彼の勧めた商店街の裏通りにある小さなレストランで食べることになります。古い建物の中にあるそのレストランに入ると、まだスペイン人の夕食の時間にはかなり早いので誰も客が居ません。そういう訳で、二人用ではなく八人位座れる大きなテーブルに案内されます。ウェーターが ”ブエナス ノーチェス”と彼らに挨拶をすると、飲み物はワインと水かどちらが良いですかと聞いてきました。メニューを見ると、両方とも同じ位の値段なので、赤ワイン小瓶一本を頼みます。食事は彼の勧めでパエリアを注文したのですが、彼女はそれがどんな食べ物か見当もつきません。ワインを飲み、会話を楽しみながら待っていると、鉄のフライパンに二人分一緒に入った炊き立てのパエリアが運ばれてきました。黄色いサフランの入ったご飯に大きなエビ、ムール貝、鶏肉、輪切のイカなどがたくさん所狭しと並べられていて、赤と緑のピーマンがそのフライパンを華やかに飾っています。彼女はそれを見ただけで、心が弾みました。こんなに鮮やかに用意された一品料理は今まで見た事がありませんでしたから。それに、ヨーロッパ旅行中には余り食べる機会がなかったご飯まで入っているのです。そのパエリアの美味しかったこと。彼女は初めてクロワッサンを口にした時と同じ様に、その時からパエリアが大好きになりました。またもや彼が傍に居たせいかもしれませんけれど…
翌日二人がバルセロナの街をぶらぶらと歩いていると、目の前にガウディの代表作であるサグラダファミリアが見えてきました。そして、その建築の偉大さに目を見張ります。聖家族教会と呼ばれるそのカトリック教会はまだ未完成で、見たことのない不思議な曲線と彫刻がとても印象的です。それからガウディの建築物に興味を持って、街の所々にある彼がデザインした幾つかの家々の見学もしました。もちろん外からだけですけれど… サグラダファミリアもそうでしたが、ガウディの作品はとても個性的で、すぐ彼がデザインしたものだとわかります。何しろガウディは直線よりも曲線を好み、建物全体がふんわりとした佇みなのです。ですから一度見たら、忘れることのない建築物だと彼女は思いました。夕食前にバルセロナの裏通りを二人で歩いていると、どこからかフラメンコの音楽が聞こえてきます。そのメロディに誘われ、小さな広場につくと、そこでは沢山の人が輪を作って何かを見ています。興味津々その輪に加わると、その広場の真ん中で、とても魅力的な若い男女が路上フラメンコを披露していました。ラテン系の人達は、どうしてこんなにも体格がよく、美人、美男子ばかりなのかと、彼女は心の中で羨ましく思いましたが、そのうち彼らの熱狂的な踊りと音楽に魅了され、二人とも最後のパフォーマンスまで心置き無く楽しみました。
次に向かったのはマラガ、彼女が何日か前に教会の前でライ病の女性を見た街です。そこでは小さなレストランでシーフードスープを食べました。具だくさんのその海鮮スープは本当においしかったと同時に値段も悪くありません。その後、海の近くの町を訪れるたび、そんな海鮮スープを探しましたが、残念ながら、どのレストランでもあれほど美味しいスープを食べることはできませんでした。よく考えてみるとヨーロッパ旅行中は毎日使うお金にも制限があり、いつもお腹がすいていたので何を食べても美味しかったのかもしれません。
二人はその後、またマドリードに戻りました。そこから汽車を乗り換え、ローマに行くことを決めたからです。そんな中、二人はお互を愛おしく感じるようになってしまいます。そして彼への愛が日に日に深くなればなるほど彼女は戸惑いました。ヨーロッパに結婚相手を探しに来たわけではないし、日本に帰れば口約束をした婚約者が待っている彼女です。こんな風に母国から遠い所で旅行をしている間は誰からも干渉されず自由に行動することができますが、いつか旅行資金もなくなり、お互いの国に帰らなければならない時が来るのです。結婚したいと思っても、あの頃は東洋人が白人と結ばれることは考えられない事でしたから。それに彼女の両親も彼のご両親も、結婚を許してくれる訳がありません。要するに禁断の恋なのです。
そんな思いに悩まされているある夜、マドリードの駅からローマ行きの夜汽車に二人一緒に乗る前に彼女は一つの決断をしました。
「これ以上一緒に旅行をし続けてしまったら別れられなくなる。そうなる前に彼と別れて一人旅をまた始めよう。そして日本に帰る方がいい。」と。
その事を彼に告げると初めは強く反対しました。 でも彼自身も将来を考えると不安でしたし、彼女の気持ちも最終的には理解し、別れる事に同意してくれます。その駅から別々の目的地に行くことを決めたのです。彼は予定通りローマへ、そして彼女はパリへと。まだ曖昧な気持ちを持ちながら駅のプラットフォームで彼の汽車が出る時間を待っていると、日本で最後に逢えなかった僧服の人との別れが、ふと彼女の脳裏をよぎりました。ここで別れたら、二度と逢えない。そう思うとあの深い胸の苦しみがまた彼女の胸に蘇(よみが)えり始めたのです。最期まで別れを告げることのできなかった苦しみを。そして彼がプラットフォームからローマ行きの夜汽車に乗ろうとして汽車のステップを上り始めた寸前に、彼女は彼の手を激しく掴み、泣きながら行かないでほしいと懇願しました。その光景を驚いて見ていた周りの人達の目も構わず。
二人はその夜、自分たちの将来について話をしました。そして彼が彼女にこう言ったのです。
「君の気持ちは理解できる。僕も将来の事を思うととても不安な気持ちになる。それならここで一度別れてみよう。そして本当にお互いを必要としているなら、一週間後の朝8時にマルセイユの駅でまた逢おう。僕たちの将来をその時決めるんだ。もし二人の愛が本当ならきっとまた逢える。そうでなかったら、これからお互いに別々の道を歩むんだ。」
彼女は納得のいくその提案に同意しました。もし彼が運命の人でなかったら、離れ離れになった後、時間がたてばきっと忘れられる。もし運命の人なら、マルセイユで必ず逢える。その約束を胸にその夜二人は別れを告げ、彼女は一人パリへ、そして彼は次ぎのローマ行きの汽車に乗りました。