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愛、恋、旅、そして恋愛 (ある女の物語Ⅰ)
冷たい女(第八章)
パリに翌日の早朝に着くと、彼女はそれまで何回か訪れたことのある天龍レストランに向かいました。彼が居ない一人旅をするのが寂しく感じ、他の国を訪問する気力が全く無くなってしまったからです。幸いレストランに何度彼女の旅行の合間に立ち寄っても天龍の従業員達は皆彼女を温かく迎えてくれました。レストランの手伝いをしながらカナダの青年と再会するかどうかを決めるまで、どう過ごしてよいか戸惑っている時に、ある素敵な日本の女性に出逢います。綺麗な黒髪の一部を頭の上に束ねた1960代のヘアースタイルが良く似合うその女性は、彼女より少し年上で長期パリに滞在していました。その若い女性によると、時々日本人に逢いたくて天龍を訪れているとのこと。そして翌日フランスの南方にあるモレスと言う小さな村へ二日程ボランティアに行くのだと言うのです。色々話しをしているうちにお互いにとても気が合い、別に何もしていないならその女性と一緒にモレスに行かないかと彼女は誘われました。彼女によると世界中から若者がそのプログラムに参加していて、いつでも誰でも参加できるのだと言うのです。パリで彼の事を思ってばかりいてこれからの岐路を決めることに迷いながら時間を過ごすより、何か世の中のためになる事をし、時間を少しでも有効に過ごした方が良いと思った彼女は、その誘いに応じました。そしてその若い女性と二人でモレス村まで車で遠出することになったのです。モレス村での費用は、そこへ行くまでの交通費以外は、宿泊費、食事まで全部そのボランティア組織が支払ってくれるというのです。ドイツ人の友達と一週間一緒に旅行した時にも自分はとても恵まれていると感じましたが、今度もそう思った彼女です。そしてドイツで車に乗せて頂いた時のように、その女友達がその村まで運転してくれるのですから、断るには勿体無いくらいの話でした。彼女はドイツの旅行の時と同じ様に、もし車のガソリン代の一部を払わせてくれるなら参加したいとその若い女性に伝え、荷物をまとめ、翌日その女性と一緒にモレス村に向かいました。
翌朝、二人がモレスに着くと早速仕事場である、村の近くにある廃墟に送られました。そこでそのプロジェクトのリーダーが仕事の内容を説明してくれます。その後、すでに働き始めている世界中から集まった若者達20人位に簡単に挨拶をして、彼らの仕事に加わりました。その廃墟は、中世期の茶色のレンガで作られた建物で、壁と屋根の半分は過去に何かで取り除かれてしまい、もう誰も住むことのできない状態でした。戦争で爆弾に襲撃されて、ボロボロになってしまった家だったのかもしれません。晴天の下で、周りの若いボランティア達と一緒に足元に落ちているレンガや、ごみなどを回収し、その廃墟の中や周りを綺麗に片付け続けます。お昼になるとサンドイッチと飲み物が届き、それを食べている間、一緒に働いていた人達と話す機会がありました。その若者達はほとんどヨーロッパから来ていて、自国の言葉ばかりか、英語をかなり話せます。彼女は自分を皆に紹介し、その時の自分の悩みを知られないよう、できるだけ笑顔を装い紹介された一人一人に応対しました。他の若者達とそんな風に会話をしたり仕事をして忙しい時を過ごしていれば、彼と離れていることも忘れられるかもしれないと始めは思ったのですが、何をしても彼のことが思い出され、彼女の心はどんどん塞ぎ始めます。2日間の無賃金の仕事を終えた後、一緒に汗を流した若者達と廃墟から村まで夜道を歩きました。空に輝く何千万もの星に囲まれて。その村のレストランで開かれた謝恩会に参加するためです。ふんだんに用意されたワインと今まで口にしたことのない豪華なフランス料理さえも彼女の暗く沈んだ気持ちを明るくさせることはありませんでした。彼女の頭の中は別れたカナダ人の彼の事ばかりで一杯だったのです。
その夜、モレスの宿泊所に戻り寝床に入ると、彼女は日に日に迫っている大きな決断のことを考え始めました。マルセイユに彼に逢いに行くか、一人でヨーロッパ旅行を続けるのか。その夜までは、あまり一人でいるのが寂しくて、カナダの青年に逢いに行くと決めていたのです。でもその決断が正しいものだとは彼女には解かりません。そんな中、彼女は自分の過去を振り返ることにしました。それまでの彼女が何かを選択しなければならない時に、どんな風に決断したのかを考えてみたかったからです。そしてそのカギは、今までの自分を見つめ直せば見つかると思いました。その過程で、自分の性格について幾つか気が付きました。彼女は小さい頃から自分で本当にやりたいことは、行動する直前まで、その思いを心に秘めている傾向がありました。その理由は、周りの人に話してしまうと、成し遂げたい事が何かの影響で達成できなかったり、自分の至らない能力が原因で失敗したりすると、恥をかくのではと恐れていたからです。それと同時に皆が自分の計画を途中で知ってしまったら、それ以上やる気が無くなるのではという心配があることも原因でした。その上、彼女はとても責任感が強かったので、皆に言ってしまったら、どんなことでも最後まで成し遂げなくてはならないと勝手に決めつけて、何をするにも焦ってしまうのではと思ったのです。結果的には、とてもプライドの高い少女だったのかもしれません。そういう訳で、彼女の人生の一大事である、ヨーロッパ長期旅行の計画も、両親、友達にも相談せず、自分だけで色々検索し、その計画がほとんど決まってから周りに知らせました。そんな性格が、彼女の母をどれだけ苦しめたか。そんな思いが胸の中をよぎった時、ふと、ヨーロッパ旅行に行く決心を彼女の母に告げた夜を思い出しました。高等学校を卒業した後、故郷を離れ、東京で働き始めてから1年半程たったある土曜日の夜のことです。久しぶりに彼女の母を自分のアパートに招待しました。彼女は、もうとっくに長期ヨーロッパ旅行に出かけることを決心していたのですが、母は全くそんなことは予想していませんでした。
池袋にあった彼女の住居は、古い建物の一角にあり、4畳半の部屋に小さな台所が付いていて、トイレは同じ建物に住んでいる人達と共同しなければなりませんでした。でも結構綺麗に管理されていて、池袋の駅も近く、幸い家賃も安かったので、彼女にとっては、うってつけのアパートでした。そんな狭い、そして安いアパートに彼女が住むことを決めたのは、毎月、お給金の半分を貯金したかったからです。何故かと言うと、彼女は7人兄弟の末っ子でしたので、自分の結婚式の費用は老いた両親に頼らず、必要な金額をできるだけ自分自身で貯めておきたかったからです。その事は両親にも知らせました。ですから両親は、彼女の将来の夢は、あの頃の女性が当たり前のように思っていたように、結婚、そして子供を持つことだと信じていました。
彼女の母は以前にもそのアパートに訪れてきたことが何回かあり、始めの頃は夕食後二人でのんびりと世間話をしていたのですが、少したってから彼女は突然母の前で正座をして、
「母さん、私をヨーロッパ旅行に行かせてください。」
と、頭を下げて懇願しました。彼女の母はそれを聞いて始めは冗談を言われたのだと思い、軽い気持ちで、なぜヨーロッパなんかに行くことを決心したのだとか、どの位行ってくるのだとか彼女に尋ねました。でも彼女が本気で話しているのだと知った母は、天と地がひっくり返ったように驚き、
「急にそんなこと言ったって お母ちゃんどうしていいかわからないじゃないか。お願いだから行かないで頂戴!」
と、母の素直な気持ちを彼女に伝えました。その後、
「あんたみたいな若い女が一人で見知らぬ国に行きたいなんて… まして日本国内じゃなく、ヨーロッパに長い間行くのだなんてあまりにも危険すぎるよ。」
と言うと彼女の決心を変えようと何度も説得しようとしたのです。そしてそれでも変わる気配のない彼女の決断に戸惑い、涙を流し始めました。彼女は母親にとって末っ子の可愛い娘でしたから、どうしてもその決意に賛成できなかったのです。そして何度も、彼女に心替えして欲しいと母は言い続けました。今まで見たことのない母の激しい感情の表現をどうして対応してよいか解からなかった彼女でしたが、それでも決断を変えることはありません。そして何度懇願しても願いに応じる気配のない娘に困り果てて、母は彼女の両腕を強く左右に揺さぶり始めました。それから急に激しく泣き始めた母を見て、彼女も一緒に涙を流し始めます。その後、どうしてもヨーロッパ旅行に行きたいという彼女の強い意志を覆せないことを知った母はやっと諦めたのですが、それでも涙が枯れるまで泣き続けました。彼女はその時、母の心をひどく傷つけたのです。それまであまり両親に逆らったことがない彼女でしたから、母に残したその傷はとても深いものだったことでしょう。
その時の母の泣き顔が、モレスの宿泊所で眠ろうとしている彼女の眼に何度も浮かび、彼女は毛布の下で涙を流しました。そんな中、東京に残してきた優しい彼までも思いだし始めたのです。もし彼女が結婚の約束を破棄すると告げたら、どんなに彼は怒りを示すでしょうか。彼女の母のように、彼女に日本に戻ってきてほしいと懇願するでしょうか。彼女の本心を打ち明けるとカナダの青年との旅が始まってから、日本を出る前に結婚の口約束をしてきた彼の事を思うことは殆どありません。だからと言って東京の彼を完全に忘れた訳では無いのです、
そんな思いに浸っていると、母との彼女のアパートでの会話と同じように東京の彼との思い出が頭の中に色々と浮かんできました。彼とのデートの数々、旅行に出る寸前に大阪万博で楽しい時を一緒に過ごした日々、どの思い出もあまり身近に思え、彼女は異なる二つの恋の葛藤にどうして良いか解らなくなりました。口約束でも約束は約束です。ですから、いくらカナダの青年との恋が急に芽生えたとしても、それはあまりにも彼女自身が無責任に思えました。僧服の人との恋に破れて苦しんでいる時にあんなに優しくしてくれた彼。そんな彼はヨーロッパで彼女に何が起きているのかも知らずに、今でも日本で待っていてくれるでしょう。もし彼女が新しい恋をしていることを知ったら、
「僕を忘れるなんて、お前は凍えるほど寒い夜、大海に吹く風の様に冷たい女だ。」
と彼はきっと呟くでしょう。彼女は心の中で彼に許しを請いました。
「御免なさい。貴方が言う通り私は冷たい女なのかも知れません。でも貴方とのあの時の恋は嘘ではなかったことは信じてください。一緒にいる時は貴方が心から好きでした… でもこの旅で出逢った今の彼は私にとってかけがいの無い人なのです。貴方とは別れることができたけれど彼とは別れられないの。許してください。本当にご免なさい。」
冷たい女
一人旅に出る前に、二人交わした指輪。
あの時は貴方に、嫁ぐつもりでいたの。
ごめんなさい貴方、仕方がなかったの。
あの人に逢った時から、すべてが変わった。
If you were here hiding your pain,
I know you would whisper the words.
“Your soul is cold as winter wind,
That swept away across the sea,
Leaving me here.”
貴方との愛は、偽りではなかった。
でも一人旅は、とても寂しいもの。
ごめんなさい 貴方、仕方がなかったの。
あの人に逢った時から、寂しさを忘れた。
If you were here hiding your pain,
I know you would whisper the words.
“Your soul is cold as winter wind,
That swept away across the sea,
Leaving me here.”
冷たい女だと 貴方はつぶやいた。
冷たい女だと 私も思うわ、許してね 貴方。
東京の彼にこんな風に遠いヨーロッパから許しを請いても届かないのは解かっていました。でも彼にどうしても彼女の心の内を知って欲しかったのです。それは彼女の母の場合も同じです。日本を出る前に、涙が果てるまで泣いていた母。そんな母にも心の底から詫びると、彼女はやっと眠りにつきました。そんな思いが彼女の心をむしばみ、モレスからパリに戻る途中、彼女はどう決断すれば良いかそれまで以上迷いました。カナダの青年を選ぶ事があまりにも彼女の父母と東京に残してきた彼に申し訳ないと思ったからです。
マルセイユに行くことを選択すれば、その決心は日本に残してきた家族や彼が、どれだけ苦しむのか考えただけで彼女は気が遠くなりそうでした。それだけではありません。彼に逢ってからどうなるかは彼女にも見当がつかないのです。まして彼に逢えるのかすら解かりません。なぜなら、もし彼が彼女と離れている間に別れるのだと決めてしまったら、マルセイユに彼は来ないでしょう。たまたま彼が彼女に逢いに来てくれても、彼女は11月半ばから働くことが決まっているのでまたパリに行かなければなりません。それまで二人で旅行を続けてもその後どうしたら良いのでしょう。仮にパリの街でアパートを借り、二人で済むことにしても、いつかは旅行資金もつき、彼はカナダに戻ってしまうのです。ですから彼女はまた一人でパリで住むことになる可能性もあるのです。お互いの愛を誓い、結婚を求めて、どちらかの国に行って住むと決心しても、彼と彼女の両親が許してくれるかさえ解りません。たとえ許してくれたとしても、どちらかが今まで住んできた母国を捨て、家族や友達を残してカナダか日本でやり直さなければならないのです。彼女は英語もそんなに堪能でもないし、カナダで住むことになっても苦労することは目に見えています。
その反面、もし彼が将来日本に来ると言ってくれても彼女がカナダに行くよりも、もっと大変なことになるでしょう。なぜなら彼は、日本語、日本の習慣、西洋と違う日本での生活にそれまで全く縁が無いのです。ですから彼が日本でかなり苦労することは解っています。言葉も、習慣も、何もかも違うそんな二人が本当に幸せに生きていけるのでしょうか?そしてもし将来二人が子供を持つことを決心したらどうなるのでしょう。親達が問題もなく彼らの孫達を愛してくれるでしょうか?そしてどちらの国に住んでも子供たちは混血児と呼ばれ、周りの人から虐められるのでしょうか?子供達はそんな酷い状況に耐えることができるのでしょうか?彼女自身さえもそうです。あまり東洋人の住んでいないその頃の西洋の世界では人種差別をされるかもしれないのです。彼女がそんな差別に耐えられる勇気があるのでしょうか?そこまで考えると彼女は突拍子もなくまた我が儘な自分の決断に対して、疑いを感じました。またその決断によって迷惑をかけるであろう人達に対して頭が下がる思いまでしました。特に東京に残してきた彼には。そして、そんな不安の中で彼女は一時、自分の決断を変えた方が良いのではとも思い始めました。でも恋をしている人間がとても強くなるというのは本当です。最終的には、そんな不安よりも彼と一緒に過ごしたいという思いの方が勝ったのです。彼の居ない日々が、それほど彼女を苦しめ、引き裂かれるほどの胸の苦しい思いを忘れることができない彼女でしたから… そして彼女の最後の選択は、彼にマルセイユで逢ってこれからの事を話し、どんなに苦労することを知っていても何事にも耐え、彼と一生寄り添って生きることでした。