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愛、恋、旅、そして恋愛 (ある女の物語Ⅰ)
マルセイユ (第9章)
二日後、朝8時にマルセイユに着く予定の夜汽車に乗るために、ある駅に向かいました。その駅は彼女がそれまでのヨーロッパ旅行の間、何処に行っても、何処から来ても必ず訪れた唯一の駅だったので、マルセイユ行きの汽車はその駅から出発すると彼女は確信していました。汽車が出る時間も近づいてきたので、天龍で玄米食の夕飯をご馳走になり、レストランの皆にお礼を言い、彼女は馴染みのあるその駅に向かいます。
駅に着くと夜の9時も過ぎていたので汽車を待っている乗客も少なく、何となく寂しい雰囲気が漂っていました。でも彼女の胸は今まで以上にときめいています。翌朝彼に逢えるのです。その心弾む気持ちを抑えながら汽車が出発するプラットフォームの番号を探すために、駅の入り口の近くにある掲示板を見上げます。ところが何度調べても彼女が乗る予定の汽車の時間がその掲示板には何処にも表示されていません。不思議に思って、駅の事務所を探し、そこで働いていた一人の駅員に尋ねました。彼は親切にもその駅の時間表を丹念に調べてから、彼女が乗りたい汽車が記載していないと知ると、パリに在る他の駅の時刻表も調べてくれました。そして彼女が乗るはずの汽車は、その駅からではなく、他の駅からもうすぐ出てしまうというのです。不運な事に、その駅はかなり離れていた所に在りました。タクシーに乗っていけば間に合うでしょうかと尋ねたところ、たぶん無理だろうとその駅員さんに言われました。二人とも片言の英語で会話をしたので、その事をやっと彼女が理解した時には、乗るはずだった汽車は他の駅から予定通りに去ってしまったのです。信じられないような事実を通知され、胸が引き裂かれるような思いをどうにか隠し、駅員さんにお礼を言って彼女は事務所を去りました。運が無かったと思うにはあまりにも悲惨です。それから少しの間、誰もいないプラットフォームに戻りベンチに座りました。暗い電灯の下で首を前に倒し、両手で頭を支えて座っている彼女の姿からは、深い悲しみが漂っているようにさえ見えます。そして彼女は心の中で問い続けました。
「なぜ駅の名前をきちんと調べておかなかったのだろう。パリにここ以外の汽車の駅があるなんて思ってもみなかった… もし昨日の夜パリを出てマルセイユに行っておけば、もっと時間に余裕があって、こんなことにはならなかったのに…」
と、後悔するばかりです。そしてその時起きていることが夢であったら良いのにと心から願う彼女でした。そんな中、時間はどんどん過ぎていきます。
でもそんなことで諦める彼女ではありません。今までのヨーロッパ旅行中には幾つかの苦しい出来事があったのにも関わらず、どうにか彼女はそんな苦難を乗り越えてきたのです。特にモンサンミッシェルでは… (注:モンサンミッシェルでの出来事は、他のエッセイに詳しく書かれています。)ですから、どんなに遅く着いても良いからマルセイユに行くのだと彼女は決心したのです。悲しみを振り切ってまた駅の事務所に戻り、駅員さんに問いました。次にマルセイユに行く汽車は何処の駅から出発するのかと聞くために。駅員さんは彼女が戻ってきたことに少し驚いたのですが、また丁寧に時間表を調べてくれました。そうすると幸いなことに、彼女がいる駅から、1時間半後にそんな汽車が出るというのです。彼女は嬉しさのあまり叫びたい位でした。そして吉報を知らせてくれた駅員さんに笑顔で感謝すると、早速そのプラットフォームに向かいました。でもその汽車に乗っても彼に逢えるのは確実ではありません。乗り過ごしたその快速汽車だけが朝8時にマルセイユに着くはずでしたから。予定の時間よりもかなり遅くパリを出発し、停まる駅も多い汽車が朝8時にマルセイユに着く訳が有りません。
それから一時間近くが経ち、彼女が心待ちにしていた汽車は予定通りゆっくりとプラットフォームに近づいてきます。その頃には、その汽車に乗ってマルセイユに向かう乗客達もプラットフォームに集まり始めました。そして着いたばかりの汽車のドアが開き、パリを訪れた旅行客が皆降りると駅の中は少しの間,沢山の人々で賑わいました。そして車両が空っぽになると同時に全部のドアが閉まり、駅で働く清掃員がコンパートメントの中に入り、一室ずつ掃除します。それが終わるまでは誰も汽車に乗ることはできません。やっと清掃も終わり、待ちに待った汽車のドアが開き、彼女は素早く最初のコンパートメントに入り、空いている席に着きました。長い夜の旅がまた続くのです。そして彼女の心の苦悩も。
「彼がマルセイユに来てくれたとしても、この汽車が駅に着く頃には私を待っているのを諦めて何処かへ行ってしまうかもしれない。もう二度と彼と逢えないかも。彼は運命の人では無かったのでは?」
と、思うと彼女の心は今まで以上に揺らぎました。でもそんな中でも、彼のことが愛おしく思え、彼の傍でまた歩きたいと心の底から願わずはいられませんでした。
「神様、お願いです。今度だけは、私に奇跡を与えてください。」と、彼女は心の中で祈り続けました。
そんな思いでなかなか眠りに着けなかった彼女でしたが、起きてないことを想像して悩んでいるより、もっと楽しいことで自分の胸の痛みを癒そうとした彼女は、それまでの彼との思い出に浸ります。セビリアから乗ったマドリード行きの夜汽車で初めて逢った時に見た彼の笑顔。温かい手のぬくもり。いつ見上げても、包むように彼女を見つめてくれる彼のやさしい瞳。そんな思い出に浸ると幸せな気持になり、やっと心も落ち着き、揺れる汽車の中でウトウトと眠り始めました。それからどれ程たったでしょうか。彼女が同じコンパートメントに座っていた周りの人達の静かな会話に気づき目を覚ますと、汽車の中に、こぼれるように朝日が差してきました。彼女は洗面所でリフレッシし、その後フランスの長閑(のどか)な田園を汽車の窓から眺め続けます。それから何時間か経つと、太陽の光に銀色に煌めく柔らかい波々が窓の外に見えてきます。青空に眩しく光る太陽の下には、真っ青な海。そして所々に浮かぶ白い帆柱を立てた小さな船々。絵になるようなそんな風景を眺めていると、彼女の胸は高まり始めました。もうすぐ彼に逢えるかもしれないのです。
マルセイユ、長い汽車の旅。
憧れのパリを去って貴方に逢いに来た。
マルセイユ、青い海が呼んでいる。
貴方の瞳が眩しく光る。
ラララララ、ラララ。
マルセイユ、白い船が浮かんでる。
夜明けの朝の太陽に輝いて、
マルセイユ、汽車はまだ走るけど、
私の心は、貴方のもと。
燃える唇、逞しい腕、
優しい微笑みに囲まれたい。
マルセイユ、貴方は、私の夢。
マルセイユ、貴方は、私の夢。
マルセイユ、マルセイユ、マルセイユ。
彼女が時計を見ると約束の時間はとっくに過ぎています。それからは時間が過ぎるのが余りにも遅く感じ、一分過ぎるのが、一時間経った様にさえ思えました。そんな思いをしている彼女の気持ちと裏腹に、汽車はまだマルセイユの駅へと走り続けます。
「もうすぐ彼に逢えるかもしれない。」
そう思うと、彼女はいてもたってもいられなくなりました。
「お願い。諦めないで私を待っていてください!」と、彼女は何度も何度も心の中で祈りました。
汽車がやっとマルセイユの駅に着き彼女がプラットフォームに素早く降りると、駅の時計はお昼の12時を過ぎています。そんな事にもめげず、彼女は必死で彼を探し始めました。でも降りたばかりの沢山の乗客が彼女の視線を阻んでいたのです。十数分経った後、プラットフォームを歩く人々が徐々に少なくなると、彼女は階段の方に目を向けました。彼女にゆっくりと近づいてくる背の高い一人の男性の姿が視野に入ってきたからです。彼の瞳が彼女の姿をじっと見つめ、嬉しそうに微笑みを浮かべています。彼は諦めずに彼女を待っていてくれたのです。逢う約束の時間からもう4時間以上も過ぎていたのに。
彼女は小走りで彼の大きな胸に飛び込みました。どんなにこの瞬間を待ったことでしょう。涙を見せるつもりはなかったのですが、彼の腕に包まれるとあまりの嬉しさに彼女の眼が潤いました。
「遅くなって本当にご免なさい。」
そう彼女が呟くと、彼はそれまで以上にしっかりと彼女を両腕に抱き、こう言いました。
「僕はマルセイユの駅に今朝六時に着いたんだ。そしてパリからの汽車が来るたびに駅のプラットフォームで君を探したんだよ。でもどの汽車からも君は降りてこなかった。それでももう少し待ってみようと思ったんだ。諦めずに待っていて本当に良かった。」
そんなにも長い時間の間、待っていてくれたのだと知った時、彼が本当に運命の人だと彼女は確信しました。
奇跡的にも思えたその再会の興奮から少し落ち着くと、久しぶりに駅のカフェで一緒に食事をします。それから二人はマルセイユの港に出かけました。そこには幾つかの桟橋があり、防水の黒い仕事着と長靴をはいた何人かの漁師達が、その朝に採れたばかりの魚貝類を自分達の船の前で直売しています。エビ、ムール貝、多種の魚、そして見たことのない海の生き物が長方形の白いプラスチックのケースに入っています。そんな海の幸から爽やかな浜の匂いが二人が歩いている所まで漂ってきました。そしてその漁師達の目の前を通ると、彼らは手を止めて珍しそうに二人を見つめます。東洋の女性を見る機会も余り無い上に、ミックスのカップルが手を繫いで一緒に歩いているなんていうことは、その頃のヨーロッパでは本当に珍しいことでしたから。でも二人はそんな視線も気にせず、手をしっかりと繋ぎ、お互いの顔を見つめ会い、微笑みを浮かべながら漁師達の仕事場を通り過ぎたのです。そんな漁師達の視線とは全く異なって、マルセイユの真っ青な空と海、眩しいほど光る太陽、そして空に飛び交う白い鳥達は皆、彼女達の再会を心から祝福しているようにさえ見えました。
それからマルセイユの砂浜を歩き、離れている間の一週間をどう過ごしたのか話し合いました。彼女はもちろんモレス村でボランティアとして働いたことを。そしてパリで間違えた駅に行ってしまい、予定の汽車に乗り遅れた時の詳細も。その間、彼の方はローマからまたバルセロナに戻り、いつものように街々や人々の生活を見てきたのだと言いました。そんな会話の中にでも、別れている間にどんなに寂しい思いをし、お互いを恋しく思ったかということも話します。そして彼女がマルセイユに来る決断につくまで、どれだけ苦しんだということも… それを聞き、理解してくれた彼は、お互いに今まで以上支えあおうと彼女に言ってくれました。これからの二人の人生は、人種の違いや、習慣、言葉の壁があるので、山よりも谷のほうが多いのですから、二人の決断がかなり強くなければ幸せに生きることはできないのです。まして1970年代の頃は…
マルセイユでお互いが逢えたことに感謝し、今のその時を思う存分満喫したいというのが彼らの胸の底からの願いでした。人生というのは、明日何があるのか解からないのですから。今その時が幸せでいられることが、本当に有り難いことだと二人は感じたのです。とにかくこれからも彼女がパリで働き始めるまで一緒に旅を続け、その後のことはパリに行ってから考えようと二人は決心しました。
その後彼等は彼女がまだ行ったことのない国、イタリアに向かいました。