愛、恋、旅、そして恋愛 (ある女の物語Ⅰ)
若いって素晴らしいことですね。夢と希望にあふれて、恐れを知らず、恋にあこがれ、恋に破れ、そして再び恋に生き、泣いたり笑ったりして毎日を過ごし…
ここに綴られたのは、そんな日々を送った若い日本女性の物語。
黒い衣 (第一章)
時は1968年。東京でのオフィスでの就職が決まり、池袋駅近くの小さなアパートに引っ越した19歳の彼女は将来への夢と希望に満ちていました。そして新しい事務員の仕事にも慣れ、ある程度日常生活が少し安定してきてからは、英会話の夜間学校にも週何回か通い始めました。英語が流暢に話せるようになれば、将来フライトアテンダントになれるのでは、と心の中で密かに願っていたからです。そうすれば何時か世界旅行もできる。それが彼女の小さい時からの夢でした。でもあの頃の日本の会社は週6日制、夜は残業で追われ、日曜日まで仕事に駆り出される事も頻繁にありました。ですから学校に通い始めてから半年も経たないうちに心身ともに疲れ始め、そんな忙しい生活に苦しみを感じるようになってきたのです。そして、
「こんな生活に何の意味があるのだろうか?」
と、疑問を持ち始めました。
「私はこんな事をするためだけに生まれてきたんじゃないわ。それなら何故この世に生まれてきたんだろう?」
と、彼女は自分自身に問いかけ始めたのです。
そんな、胸の中がモヤモヤする日々を過ごしていたある日、澄み切った青空に届くかのように高く聳える尖塔を持った、ある建物の前を通り過ぎたのです。その建物は、あの頃の日本ではあまり見かけ無かった灰色のゴシック建築様式で建てられたカトリック教会でした。その大きくて厚い壁に囲まれた建物は一度、中に入ってしまえば、どんな境遇からも彼女を守ってくれる様にさえ見えました。厳粛な佇みでありながら、何故か誰をも迎えてくれるような。そしてその教会を見た時から、もしかしたら宗教を信じることで「自分が何故この世に存在するのか?」という質問の答えを得ることができるかも知れないと彼女は思い始めたのです。その数日後、彼女は何かに取り憑かれたかの様に教会のドアを叩きました。そこで初めて出逢ったのは黒い僧服に包まれ、十字架のついたロザリオを腰から下げていた若い神父様。彼女は初めて逢ったその時から、彼の誠実な趣と優しい目に何故か心惹かれました。
その後、週一回、キリストの教えを彼から授かるためにその教会に通うことになりました。日常の忙しい生活は前と全く変わっていないのにも関わらず、宗教の教えから少しずつ自分自身を取り戻し始め,人生に前向きに立ち向かうことができる様になってきたとさえ彼女には思えました。と同時に、僧服の人に逢うたびに、彼の存在が自分の胸の中で少しずつ大きくなっている事を感じ始めました。でもカトリックの神父様が結婚することは宗教上、許されなかったのです。恋をしてはいけない人を彼女は愛してしまいました。そしてその恋が叶わないのだと思えば思うほど、彼女の胸の燃える思いが募るのを、どうして対応して良いか解らなくなる自分に戸惑いました。
数か月たったある日曜の夕方のことです。彼女は定められた約束の時間より早めに教会に行きました。自分の心を癒してくれた神様に感謝を込めてお祈りをしたかったのです。教会の重たいドアを開け静かに中に入ると、黒い衣に包まれた彼が祭壇の前でただ一人お祈りをしていました。沈み始めた太陽がステンドグラスを通して淡い七色の光を放ち、祭壇の前で静かに膝まづいて祈っている彼の姿を優しく包んでいます。まるで神の存在が彼を護っているように。その光景をみた彼女は扉の近くの暗い片隅に静かに立ち止まりました。そして祈り続ける彼の姿をじっと見つめていると、いつの日か芽生えた彼への愛が胸の底から湧き上り、叶うことのない恋の悲しさと、胸の痛みを強く感じはじめました。
彼女のそんな思いは少し前から僧服の人には届いていました。でも彼は彼女の気持ちを受け止めることはできません。祭職に携わった以上、彼は結ばれることを許されぬ身なのです…
その翌年、桜の咲き乱れる復活祭の日に、彼女はカトリック信者としての洗礼を受けました。彼に頂いたロザリオを胸に… 洗礼を受けた後、彼女は実らぬ恋の苦しみから一時逃れたようにもみえました。でもその頃から、二人はただ眼を交わすだけでもお互いの愛の存在を意識し始めたのです。その事をまるで神様が察したかのように、それから一月程たったある日、彼は急に遠い長崎の教会へ転勤する事になりました。彼が九州に行ってしまえばもう二度と逢えることは無いかもしれないのです。
とうとう別れの日が来てしまいました。その日の午後、彼に会うために少し早めに教会に向かった彼女ですが、これから起きる出来事をどうやって受け止めたら良いのか、そして彼にもう二度と逢えなくなる心の準備が本当にできているのか不安になり、教会の門をくぐることができませんでした。そんな自分の気持ちを整理するために、教会の真向かいにあるデパートの食堂の椅子に一人、腰を下ろしました。夕食時間の随分前でしたので、周りには客は殆ど居ません。そして、食堂の大きなガラス窓から教会を見下ろすと、彼と過ごした色々な思い出が波のように押し寄せてきます。その一つ一つの思い出に浸るたびに、涙が溢れてきて、長い間その椅子から立ち上がることが出来ませんでした。数時間後、やっと涙も収まり教会の門をくぐりましたが、彼は藤棚の下で、最後の別れを告げに訪れた多数の信者たちに囲まれていたのです。彼女は何故かその集いに交わることが出来ず、皆に微笑んでいる彼を遠くからじっと見つめました。僧服ではなくカジュアルな、でもやはり黒い私服を装っていた彼は、今迄より輝いて見えます。夕暮れの中、少しの電灯の明かりが一つ一つともり始めた頃、彼は信者達に最後の別れの挨拶をし始めました。
やっと冷静になり、彼と直接逢って別れを告げようと藤棚の近くにゆっくりと歩き始めた彼女でしたが、彼の姿が徐々に近くに見えてくるなり目頭が熱くなり、涙が迸(ほとばし)り始めたのです。彼に逢うのはこれで最後かもしれないと思った瞬間、彼女は胸を引き裂かれたような気がしたからです。その感情を皆の前でむき出しにすることを恐れた彼女は、「さようなら。」の一言も言えず教会を後にしました。涙が溢れて、何処をどう歩いているかも分からなくなって、気が遠くなるような思いをしながら…
「もう一生逢わなくてもいい。これでいいんだ。」
と、彼女は自分にそう言い聞かせ、二度と彼に逢わないことを決心しました。
涙ぐみながら教会の近くの繁華街を宛ても無くさまよっている間に、彼が乗るはずの汽車が出発する時間がどんどん迫ってきました。その時間が近くなればなる程、
「神父様とこんなお別れをしたくない。最後にきちんと別れの言葉を交わしたい。逢いたい!これが最後でもいいから逢いたい!」
そんな思いが彼女の「もう二度と逢わない。」という決心を覆(くつがえ)しました。そして彼女は教会の近くにある駅に小走りで向かったのです。
「もう遅いかもしれない。でも一目でも逢いたい。」
と、彼女は祈るように駅の階段を昇りました。でもやっと駅のプラットフォームに着いた時には電車のドアはもう閉まりはじめ、ホームに残っていたのは乗客を見送りに来ている人達だけです。彼女は小走りで電車の窓の中を一両一両覗き込み、必死な思いで彼を探し続けました。
そんな彼女の姿を、電車のドアの入り口に隠れるように立ち、じっと見ていた彼が居ました。彼女が教会に来ていた事も、そして突然消えてしまった事も彼は知っていました。なぜなら彼女が教会に逢いに来てくれるのを一日中楽しみに待っていたのですから… そして、さよならも言わずに去ってしまった彼女の気持ちも痛いように解っていました。彼自身、彼女を愛おしく思い、最後の別れになる事が苦しく思えたからです。
でもその時電車を降りてしまったら、きっと彼女と離れたくないという気持ちに襲われるかもしれない。そうなれば電車に戻ることも無いだろうし、九州への転勤も諦めなくてはならない。最終的には祭職も失うことになる。それを自分で良く判っていたのです。彼は、掻き立てる思いを抑える様に瞼を静かに閉じ、胸の中で祈りました。彼女の許しを請うのと同時に、神様が彼にこの瞬間を乗り越えられる強い意志を授けるようにと… 電車がゆっくりと走り始めて彼女の姿が彼の視野から消えると、これが彼女を見るのが最後なのだと自分に言い聞かせました。その行動こそが彼が神を愛する証…
黒い衣に包まれて、貴方は一人祈る。
その姿を見つめる私は、教会の片隅。
実ることのない、この恋が、私の心を引き裂く。
実ることのない、この恋が、私の心を引き裂く。
貴方に知ってほしかった、私の切ない思い。
でもそれは、禁じられた恋、許されぬ恋。
私は貴方を愛してるけど、貴方は私を愛せない。
私は貴方を愛してるけど、貴方は私を愛せない。
教会の鐘が鳴る夕べ、貴方は別れを告げた。
私の愛を知らぬまま、貴方は闇に消えた。
私の愛は貴方に捧げた、でも貴方の愛は十字架に。
私の愛は貴方に捧げた、でも貴方の愛は十字架に。