第五話 - キャソリーン

 

おばあちゃんのご主人の2つ上のお姉さんの名前はキャソリーンといいます。キャソリーンはご主人の生まれたカナダのハミルトン市で、一生結婚をすることなく一人で長い間暮らしていました。でもご主人の両親が亡くなった後、ハンディキャプのある10歳下の弟を両親の代わりになって面倒を見る決心をして両親の家を継ぎ、随分とその家のために尽くした心の優しいお姉さんです。でも世話をしていた弟が他界してから数年後、煙草を吸い過ぎたせいでしょうか、キャソリーンは肺癌で亡くなりました。 

彼女が亡くなる少し前から、カルガリーに住んでいるおばあちゃんのご主人の妹メアリーがハミルトンに駆け付け、彼女の面倒を見てあげていました。メアリーはその少し前に定年退職していたので仕事を休む心配もなく、「姉さんのためなら」と言って、キャソリーンの看病をすることを決意しました。9月のある日、キャソリーンが亡くなったとメアリーから知らせが届き、メアリーの旦那さん、おばあちゃんのご主人、そしておばあちゃんはカルガリーから飛行機で4時間ぐらい離れているハミルトンに行ったのですが、この時また信じられない不思議な事がおきました。 

キャソリーンにはあまり友達もいなく宗教にもあまり携わっていませんでした。ですから亡くなる直前まで「私が死んだら、本格的な葬式はして欲しくない。」と、メアリーに何度も願ったのだそうです。そのため彼女の埋葬の時だけカトリックの神父様がお祈りを捧げるという簡単な儀式が計画されました。その式に参加することになったのはハミルトンに住むご主人の弟夫妻と、カルガリーから駆けつけてきたおばあちゃん達の、たった6人だけでした。そしてその儀式の後、6人でキャソリーンの晩餐会をするために近くのレストランに行くことになりました。 

埋葬が計画された日は雲ひとつない、すっきりとした晴天でした。遠く離れたカルガリーに住んでいるおばあちゃん達がハミルトンに来ることは久しぶりなので、墓地に出かける時間が来るまで皆でキャソリーンの住んでいた実家に集まることにしました。待っている間、久しぶりに訪れた実家の台所のテーブルを囲み、お茶を飲みながらキャソリーンとの色々な思い出を話し、ノンビリとしたひと時を過ごしていました。すると急に台所の窓の方からガタガタと音がしたのでおばあちゃんのご主人が窓の外を覗いたのですが、突然暴風が吹き始めたというのです。そしておばあちゃんが玄関から外を見た時には、激しい雨が地面や庭の木々を叩かんばかりに降り始めたのです。でもそれはたったの十分位続いただけで、そのあとすぐ強雨はやみ、雲も風とともになくなりまた綺麗な青空が見えてきました。この時ばかりは皆驚いて、まるで嵐があった事がうそだったように顔を出し始めた太陽を見ながら、あんな急な天気の変更は見たこともないと話し合っていました。でもおばあちゃんとご主人は「あれはきっとキャソリーンが皆にお別れを言いに来たんだ」と心の底で思っていました。  

埋葬の時間が来て、皆で家族のお墓がある墓地まで車で出かけました。10分ほど車に乗って、おばあちゃんのご主人の両親と弟も眠っている大きな墓地に着きました。 中に入ると小高い丘に敷かれた緑色の芝生は、雨の後で太陽の光を浴びてキラキラと輝いています。キャソリーンのお墓は両親と弟のお墓のすぐ隣で、そこには棺桶よりちょっと大きめな長方形の穴がすでに掘ってありました。おばあちゃんのご主人の家族はカトリック教徒なのでキャソリーンは火葬されず、お墓に埋められるのです。ですから彼女の棺桶は密封され、埋葬される場所の前に静かに横たわっていました。おばあちゃん達はまずご両親と弟のお墓の前に立ち、お花を捧げてお祈りしました。それからまっ白な大きなユリでいっぱいに飾られたキャソリーンの黒光りした棺桶の周りを囲み、カトリックの司祭者を待ちました。その間彼女のお棺の前でただ淡々と昔話を彼女に話し掛けるようにして皆で集いました。 

少し経つとカトリックの神父様がお見えになり儀式を始めました。神父様と共にキャソリーンのために皆でお祈りし、埋葬の儀式は15分位で無事に終わりました。そして最後におばあちゃん達は棺桶の上に大きな白いバラを一人一本ずつ供え、彼女に別れを告げたのです。それから皆でまだお墓が見える場所まで少し歩き、墓地で雇われている人達が、すでに棺桶の下に用意されていたロープを徐々に緩めキャソリーンの亡骸を厳かにお墓の中に下ろすのを見届けて、墓地を去りました。 

その後計画していた通り、晩餐会をするために墓地の近くの食堂レストランでまた6人一緒に集まりました。そこでは彼女の天国までの無事な旅を祈りつつ、時には涙を流し、時にはキャソリーンとの面白おかしい出来事を思い出しては笑ったりしながらその日の午後を過ごしました。     

晩餐会の後、次の日に仕事に行かなければならないおばあちゃん達は、午後5時にカルガリーに行く飛行機に乗るためにハミルトン飛行場に向かいました。でも不思議な事にそれ迄は晴天だった空が、おばあちゃん達が飛行機に乗った途端、強い風と雨が突全襲ってきました。飛行機の窓から外を見たのですが、激しい雨以外には何も見えなくなってしまったくらいです。それは埋葬の前にキャソリーンの家で起きた時と全く同じ現象でした。あまりの暴風雨で、一時はカルガリーへの飛行が中止になるのではと心配した程でした。でも10分もすると、また青空が見えてきておばあちゃんたちの乗っている飛行機はその後何事もなくハミルトン飛行場を飛び立ちました。おばあちゃんとご主人は顔を見合わせ、 

「きっとこれがキャソリーンの最後の、最後のお別れの挨拶なんだね。」

と話しあい、彼女のことを祈りつつ青空を見上げました。

 

第六話 - 兄の予告

 

2012年の12月に宇都宮の実家に住んでいた大好きなおばあちゃんの一番上のお兄ちゃんが87歳で亡くなりました。生憎おばあちゃんはお葬式に参加できず、遠いカルガリーからお兄ちゃんの冥福をお祈りするのみでした。海外に住んでいるということはとても不便なことです。

その頃おばあちゃん達がカルガリーで住んでいた家は、2002年に新築したばかりの結構まだ新しい匂いのする家でした。ですからそれまで何も大きな修理をする必要も無かったのですが、お兄ちゃんの死後の翌年2013年の1月から翌年の4月の間には、下水道に関した幾つかの物に、たて続けに支障が出てきました。

例えば2階のトイレ2つが両方とも故障したり、地下にある廊下のカーペットに水が漏れたりしたのです。カナダの家には地下があり、ほとんどの新しい家は一階と同じように壁も床も綺麗に改装されています。そして地下にレックルームを作ったり、ゲストの寝室を設けたりして上階同様頻繁に使われています。おばあちゃんの家の地下にも、物置や炉室がある部屋以外は全部カーペットが敷かれていていました。ですから、びしょびしょになった廊下のカーペットへの水漏れを止めるために、早速水道屋さんを呼んだのです。でもどういう訳か水道屋さんが帰ったあと2、3日足らずでまた水漏れがあり、計3回も同じ水道屋さんを呼ばなくてはなりませんでした。その上にガレージのドアのリモコンが壊れてもいないし、電池も切れていないのに自動で開かなかったりしたのです。こんなことはヴェエラ叔母ちゃんが亡くなった時も経験したので迷信深いおばあちゃんは、お兄ちゃんの葬式に日本まで行かなかったので、天国でお兄ちゃんが怒っているのではと初めは思っていました。  

ところがその年(2013)の6月におばあちゃんたちの住んでいるカルガリーで大規模な洪水があり、カルガリー中心街のほとんどが浸水で被害を負ったのです。それまではカルガリーほど天災のない街は世界中にもあまりないだろうと信じていました。なぜなら、カルガリーは太平洋からかなり離れた、ロッキー山脈を越えた所にある街なので、津波などには全く縁がありません。活火山も近くには無いので地震などもアメリカの活火山が噴火した時に1度経験した位です。ですから、おばあちゃんがカルガリーにそれまで住んでいた40数年の間、天炎にはほとんど縁のない街だったのです。 

でもその年は、それでなくても雨季で普段より川の水が増えている6月に、ロッキー山脈に積もっていた雪が速いスピードで溶け、そしてその水がボウ川に合流して氾濫しました。そして予告も無しにその川の下流にあるカルガリーの街に洪水が押し寄せてきたのです。そういう訳でその洪水がカルガリーに着いた頃には、高度の低い街の中心部の土手からかなりの濁水が溢れ、沢山の高層ビルが今までに無い被害を受けました。その洪水はかなりひどかったので、世界でも大きなニュースとして取り上げられた程です。 

幸いおばあちゃん達の住んでいる家は小高い所にあったので普段の生活には被害は全く無かったのですが、娘から受け継いだコンドミニアムが街中心街にあったので、その場所はある程度被害を受けました。おばあちゃん達はその洪水がカルガリーにどんな影響を与えたのか毎日地方のテレビニュースを見ていましたが、そのニュースによると、街の中にある家々の地下は下水道から溢れ出てきた汚水で悩まされ、時間をかけて清掃しなくてはならない程でした。その上、地下に置いてあった家具等は衛生上危険でもあるので使えなくなり、全部処分するようにと市役所から勧められたりしたので、かなり大損害をうけたようです。 

それらのニュースを見ながらお兄ちゃんが亡くなった後に起きた様々な事をおばあちゃんは思いだし、ある日突然気づいたのです。お兄ちゃんは、おばあちゃんがお葬式に行かなかった事を怒っていたのでなく、おばあちゃん達の住んでいる街に洪水が来ると6か月前から予告をしてくれたのだと思い始めました。あんなに仲良かったお兄ちゃんでしたから、その方が理屈に合います。 

「お兄ちゃん、有難う」と心の底からおばあちゃんはお礼を言いました。

  

第七話 - 911テロ事件  

 

2001年9月11日は世界中の人、特にアメリカ人が忘れることのできない同時多発テロ事件がおきた日です。ニューヨークにある国際貿易センターのツインタワーが一瞬のうちに崩壊され、3000人近くが亡くなり6000人以上の人々が支障を受けたあの恐ろしい事件。ロシアとの冷戦時代を乗り越え、やっと平和な世の中を迎えたかのように見えたその頃、宗教のために自分を犠牲にしてまでも戦うアルカイダに属する人々が私達に新しい恐怖を招き始めました。カナダに住んでいるおばあちゃんにとっても、ある特別な理由があってその日はとても印象に残っている日です。

日本人であるせいかおばあちゃんは少し迷信深く、自分で選択できる新しい電話番号や、銀行の口座やコンピューターのパスワードなどを決める時には4(死)と9(苦)の数字をなるたけ避けるようにしています。そして、たまたま時計を見て4:44分だったり、ニュースで4や9に関連した数字を見る事が一日に何度もあったりすると、後に何か悪いことが起きるかもしれないと、ちょっぴり不安にもなります。 

そんな不安な気持ちがおばあちゃんの人生で一番印象深く残ったのは2001年で、その年8月31日に始まりあの悲劇的なテロ事件のあった9月11日に終わりました。

おばあちゃんは今でもその日をはっきり覚えています。最初に不安な気持ちに襲われた8月31日。お昼休みに会社の近くで例年献血運動を催している、ある献血センターを訪れました。なぜあの頃おばあちゃんが献血をしていたかというと、日本に住んでいた二番目のお兄ちゃんがその数年前過労で倒れ、多量の献血が必要だったのです。でもカナダに住んでいるおばあちゃんは残念ながら直接献血ができませんでした。そういう訳でお兄ちゃんが必要としている時に献血をしてくれた人達に感謝する気持をこめて、カルガリーで献血をしようと決心したのです。そうすれば自分なりに納得がいくと思ったからです。そしてお兄ちゃん亡くなった後もおばあちゃんは献血を続けていました。 

8月31日の出来事に戻ります。献血所の受け付けで、要求されたおばあちゃんの個人情報を提供した後、待ち番号の札を頂いたのですが、その時の札が44番だったのです。なにか嫌な予感がして、“また来ます”、と受付の人に告げその札を返して、おばあちゃんは一旦そのオフィスから立ち去りました。10分程献血所の周りをうろうろと散歩してからまた受付まで戻ると、今度は56番の札を頂きました。その札を見てこれなら大丈夫と安堵しておばあちゃんは献血に携わりました. 

どういう訳かその日(8月31日)から始まって、9月10日迄の11日間、おばあちゃんは色々な場所で44の数字を見続けたのです。たまたま車の中やマイクロウェーブオーブン、そしておばあちゃんの腕時計に目をやると4:44分、夜中に起きてちょっと目覚まし時計を見ると4:44分、とにかく44の入った数字が頻繁に何処にいても見たのです。偶然だったと言ってしまえばそれまでなのですが、おばあちゃんにとってはとても気味の悪い経験でした。

それだけではありません。献血をしてから2-3日後、お昼休みに会社の友達と近くの公園に散歩に行った時の事です。住宅街を楽しくお喋りをしながら歩いていたのですが、ある家の前の庭を通ると、その頃カルガリーではあまり見たことのない真っ黒なカラスが何十匹も家の庭に屯(たむろ)っていたのです.1、2匹ではありません。何十匹もの気味の悪い真っ黒なカラスが、です。日本と違ってあの頃カナダで普段見ることが多かったのは、カラスとは思えないくらい綺麗なマグパイという白と黒の野鳥でばかりで、真黒なカラスをおばあちゃんはあまり見たことがありませんでした。嫌な予感がしてその家の前に止まって、じっとそのカラスを見つめていると、友達が「どうかしたの」と心配して尋ねてくれました。それ程おばあちゃんはその光景を見て不安を感じていたのです。    

不気味なカラスを沢山見た次の日の夜、NHKのニュースを見ていたのですが、その夜の一番大きなニュースは、東京で起きた火事のことでした。4階建ての建物が火事になり、中にいた人たちがビルの中に閉じ込められて、お店を訪れていたお客さん達など合計4人が死亡したのこと。  

そしてその翌日の夜、アメリカのメージャーリーグ、シアトルのマリナーズで活躍していた鈴木一郎選手がニュースに出ていました。その日に一郎選手が歴史的に何かを達成したという素晴らしい報道でしたが、144の入った数字がニュースの中で触れていたのだけは覚えています。多分ホームランの数だったと思いますが、あまり昔のことではっきりは覚えていません。おばあちゃんはそのニュースを見て、本当は一郎選手のアメリカでの成功を讃えるべきだったのでしょうが、なんとなく気味が悪い思いをしたのが本音です。最近、彼の2001年の打撃レコードを、インターネットを使っておばあちゃんは必死で調べたのですが、それを裏図ける一郎選手の記録は残念ながら何処にもありませんでした。 

多分その翌日だったと思います。新しい家を買うために、建築会社の勧める家やまたは空地を選ぶために、おばあちゃんはご主人と一緒に不動産から勧められた幾つかの場所を訪れました。なぜその頃家を新築する事になったかというと、カルガリーに住んでいるおばあちゃん達の息子に二番目の子供ができる予定だったからです。孫達の面倒を見るのには、なるたけ息子の家族の近くに引っ越ししたほうがよいと息子夫婦とおばあちゃん達は同意しました。何件かの新しい家を見て回った後,2-3の空き地も訪れました。その一つの空き地に、真っ黒なカラスがまた何十匹も屯っていたのです。黒光りした羽を羽ばたき、奇妙な声を放ってお互いをつつきながら… その不気味な光景を見たときは足が竦む思いをしました。勿論その空き地はおばあちゃん達の家を建てる候補から外されました。     

とにかく献血をした8月31日の後、毎日数字の“44”を時計、看板、スポーツ選手の背番号、そしてテレビのニュース等で頻繁に見て、おばあちゃんの不安は日ごとに高まりました。

9月9日の夜はアメリカのテレビ番組で、あるスパイ映画を見たのですが、その内容は戦争と死についてでした。それは何となく、暗く不吉な映画で、おばあちゃんは見終わってからもっと嫌な気分になりました。 

そしてテロ事件の前日、9月10日にはNHKのテレビ番組で広島原爆の映像を放映していました。毎年そのような放映は原爆記念日の8月の6日か9日のみに放映されるのですが、その年は何故か9月の10日にも放映されていたのです。その映像で飛行機から落ちる爆弾が広島の街をあっという間に変え、街中の建物が灰に変わっていく姿をみて、おばあちゃんは体中が震えました。こんな不安な気持ちからいつ逃れられるのかなと思いながら、その日は眠りにつきました。そしてその翌日、あの恐ろしいテロ事件が起きました。  

9月11日の朝、おばあちゃん達は仕事に行く途中でラジオを聞いていました。7時半近くだったと思います。ニューヨークの国際貿易センターのツインタワーがアルカイダにハイジャックされた飛行機によって崩壊されたというのです。会社では皆その事ばかりを話していて仕事も手に付けられないくらいでした。おばあちゃんの働いている石油会社の建物もカルガリーではかなり高く聳える、56階もあるツインタワーの一つなので、もしかしたら狙われるのでは、と会社の周りの人たちは大騒ぎし始めました。 

おばあちゃん達は会社が終わり、家に帰ってからその悲惨な出来事をテレビで何度も何度も目にしました。ツインタワーが一つ、そしてまた一つ、あっという間に崩壊されていくその映像に2人ともお互いに言う言葉もありませんでした。おばあちゃんはその映像を見ながら、その日迄におばあちゃんの周りで起きた不思議な出来事、特に前日に見た広島原爆の映像を思い出し、どうしていいか判らない感情に襲われました。 

それらの出来事は全部テロ事件の予告だったのかもしれないと、その時初めておばあちゃんは思いました。    

不思議なことにはそのテロ事件が起きた後は、おばあちゃんは暫くの間、数字の44や、不気味な真っ黒なカラスを見たりすることがほとんどありませんでした。  

でも2004年の12月にタイで起きた津波があった事前には、何十回も“44”または“4”の数字を日常生活の中で見ることになり、おばあちゃんはご主人に「もうこんな思いは沢山だ」と言った事さえあります。今でもおばあちゃんは“44”の数字を見ることはしばしばありますが、なるたけ注目しないように心がけています。 悪いことが起きると思うととても苦しく思えるので。それに、そんな予告があっても、おばあちゃんには勿論それを防ぐことはできませんし…