おばあちゃんの七不思議

 

著者:前田洋子

編集者:佐藤和恵

 

貴女には今までにこんな経験が有りますか? 随分長い間逢っていなかった人が、突然貴女の夢の中に現れ、偶然にも次の日にその人にバッタリ道端で逢ったなんて事が。おばあちゃんにはそんな経験の他にもっと信じられないような出来事が幾つかあります。 

仮にあなたが幽霊、奇跡または迷信などを信じなくとも、世の中には理屈では説明できない不思議な事が沢山有りますよね。ここでは、おばあちゃん自身に起きた七不思議を皆さんにお話ししたいと思います。 

 

第一話 - 夢電話

 

もう随分前のお話です。おばあちゃんがカナダに住み始めてから10年近く経ち、子供達も小学校に通う様になった頃こんな事が有りました。   

ある夜おばあちゃんの家で、「じりーん、じりーん、じりーん」と電話のベルが三回鳴り響きました。おばあちゃんが慌てて電話のある部屋に走り、受話器を取って、

「Hello」と英語で答えると、

「もしもし」

と、電話の向こうから懐かしい声が聞こえてきました。

その声の持ち主が誰かが、おばあちゃんにはすぐ解りました。何年か前に亡くなったおばあちゃんの父親、「お父ちゃん」の声だったからです。死んだ人から電話が掛かってくるなんてことは現実には有りえません。ですから、おばあちゃんは単に夢を見ていただけでした。夢とは不思議なもので電話を通して話しているのに、向こう側で受話器を持っている「お父ちゃん」の顔がおばあちゃんにはハッキリと見えました。 

「お前の近しい人を迎えに来たよ。」

と突然「お父ちゃん」は彼女に言ったのです。それを聞いて、「近しい人」というのは彼女のご主人か子供達の事だとおばあちゃんは咄嗟(とっさ)に思いました。そしてその中の誰かを、あの世から死の世界に導くために「お父ちゃん」がわざわざ迎えに来たのだ、と。おばあちゃんは急に胸が突き刺さるような思いがし、夢の中でオイオイと泣き始めました。

  

「お父ちゃん、お願いだから私の傍から誰も連れて行かないで頂戴。主人も子供達も皆私の大切な、大切な人達なんです。」

 

と涙ながら請いました。すると「お父ちゃん」は少し困ったような顔をして、

 

「洋子、お前の気持ちは分かった。誰も連れて行きはせんよ。心配しなさんな。」 

 

と寂しげに言うと静かに電話を切りました。と同時に「お父ちゃん」のイメージは夢からフッと消えました。その時、おばあちゃんには「お父ちゃん」の目に涙を見たような気がしました。そしてその事が夢ではなく実際に起きているようにさえ思え、興奮のあまり真夜中に眼が覚めてしまいました。おばあちゃんのご主人もおばあちゃんの鳴き声を聞いて目を覚まし、

 

「どうしたんだい? 悪い夢でも見たの?」

 

と言いながら、そっとおばあちゃんの頬を優しく擦りました。

 

「夢? あれはただの夢だったの?」 

 

と、おばあちゃんは言うと、暗い部屋の中でご主人の目をじーっと見つめました。そして夫には何事もなく、直ぐ傍にいる事に安心し、

 

「私は大丈夫よ。貴方がここにいるもの。でも子供達は? 子供たちは大丈夫?」

 

「子供たちは自分達の部屋で寝ているよ。本当に大丈夫なのかい?」

 

と、ご主人は彼女に言いました。おばあちゃんは愛する人たちが皆無事である事を知り安堵して静かに首を縦に振りました。そして、

 

「ああ、みんな無事で本当に良かった…」と独り言を言いました。

 

その後ご主人はすぐ眠りについたのですが、おばあちゃんは夢のことが気になって眠れませんでした。もしあの夢が予告だったら、次の日におばあちゃんの周りで何か悪い事が起きるかもしれないと急に心配し始めたからです。  

 

翌朝はかなり寝不足でしたが、おばあちゃんは何時ものように朝早く仕事に出かけました。彼女はその頃カルガリーの、ある石油会社で秘書として働いていたのです。朝の7時半に会社に着き、書類を廊下にあるキャビネットの中に片付け始めた時です。おばあちゃんの机の上の電話が鳴り始めました。夢の時と同じように、また同じ音で電話のベルが「じりーん、じりーん、じりーん」と3回鳴ったのです。  

 

「お早うございます。ドーム石油会社の洋子です。」

 

と、いつもの様におばあちゃんは英語で電話に応対しました。すると電話の向こうから日本人の女の人が、

「もしもし」と、震えた声で、日本語で話し始めました。

 

その声の持ち主はおばあちゃんの隣の家に住んでいる友達でした。おばあちゃんはその頃、その友達を自分の妹のように可愛がり、彼女の家族と親しくお付合いをしていたのです。その友達には、その時1歳になるマーちゃんという男の子がいました。彼女はおばあちゃんの声を聞くと電話の向こうで急に激しく啜り泣きしながら、おばあちゃんにこう言ったのです。  

 

「昨日の晩、マーちゃんがヴァン(フォルクスワーゲン)のステップから落ちて、頭を打って大きな怪我をしたの。それで今バンクーバーの病院にいるの。死んじゃうかもしれない。どうしたら良いかわからない…」

 

と言うと、大きな声で泣き始めました。

 

おばあちゃんは彼女の言っている事が、あまりにも突然で信じられなく、初めは何と返答してよいか少し戸惑いました。が、その時、前夜の夢の中での亡くなった父との会話を思いだしたのです。「お父ちゃん」はおばあちゃんの傍にいる誰かを迎えに来ていたけれど、おばあちゃんの願いを聞いてくれて誰も死の世界に連れて行かなかった。考えてみれば、マーちゃんもおばあちゃんの近しい人の一人だったのです。おばあちゃんはその夢を信じて、

 

「大丈夫、マーちゃんは死になんかしない。しっかりして!」 

 

と、自信をもって女友達を元気づけました。

 

本当ならば、病院にすぐ駆けつけて、傍で友達を慰めてあげたかったのですが、生憎、その病院のあるバンクーバーはカルガリーからロッキー山脈を越え、飛行機では1時間、そして車では15時間もかかる遠い所なのです。彼女の家族はご主人の休暇を利用してヴァンで遠いバンクーバー迄、一週間の旅行に出かけていたのです。

 

電話が掛かってきた後は、マーちゃんの命だけでも助かるようにとおばあちゃんは必死にお祈りをし続けました。幸いに2-3時間経って、その友達から2度目の電話がありました。彼女はまだ啜(すす)り泣きをしていましたが、マーちゃんが峠を越え無事であったと嬉し涙を流しながらおばあちゃんに告げたのです。朗報を聞き、電話を切った後、

 

「お父ちゃん、マーちゃんを守ってくれて本当にありがとう。」

 

と、おばあちゃんは手を合わせて「お父ちゃん」に感謝しました。

 

その夜、それ迄24時間の間におばあちゃんが経験した2つの出来事を振り返ってみました。昨夜見た夢の中でも、そして実際に会社で起きた時も、同じような音で電話が「じりーん、じりーん、じりーん」と3回鳴りました。そして、おばあちゃんが「お父ちゃん」の夢を見ていた頃に、マーちゃんはバンクーバーで生死を彷徨(さまよ)っていたのです。でも確かに「お父ちゃん」は夢の中で、死の世界に誰も連れて行かないと約束してくれました。そしてその言葉通り、マーちゃんは奇跡的に命を取り留めました。その結論に達した時には、余りにもの偶然におばあちゃんは驚きました。あの夢は,やっぱりおばあちゃんへの予告だったのです。 

   

現在マーちゃんはもう40歳を超えています。おばあちゃんが何年か前に彼に久し振りに会った時は、あんな命に係わる事故にあった事が夢でもあったかのように、とても元気でした。 

 

第二話: 亡くなった「お父ちゃん」の訪れ 

おばあちゃんは、小さい頃からとても可愛がってくれた父親を「お父ちゃん」といつも呼んでいました。「お父ちゃん」は後年になってから胃癌を患い、ある年の春に、72歳で亡くなりました。 

その数年前に、おばあちゃん達家族がカナダから日本を訪れた時に「お父ちゃん」が末期癌にかかっている事をおばあちゃんの母親が教えてくれたのです。その頃の日本のお医者様は、末期癌にかかっている患者には病状を伝えないのが慣例でした。ですから「お父ちゃん」は自分の病気はいつか治るものだと思っていたのです。そういう訳で、日本に着いて間もなく、母親から、おばあちゃんのご主人以外には誰にもその事を告げないようにと頼まれていました。特に「お父ちゃん」の前では病気の話に触れない様にと。おばあちゃんは父親が末期癌と知って、とてもショックでしたが「お父ちゃん」の周りでは何も知らない振りをし、最後かもしれない「お父ちゃん」との貴重な日々を楽しく一緒に過ごす努力をしました。一緒に東京に行ったり、宇都宮の実家の近くの公園に行ったりもしました。でも、とても辛かった時は「お父ちゃん」がすぐ傍に居るときでした。「お父ちゃん」を抱きしめて一緒に泣いて、いつまでも「お父ちゃん」をその腕から離したくないという感情に何度も襲われたからです。 

カナダへ帰国する日、おばあちゃんの日本の家族達がわざわざ飛行場まで送ってくれました。一人一人に別れを告げ、最後に「お父ちゃん」の目の前に立った時は、もう二度と会えないかも知れないという思いで一杯になり、おばあちゃんは急に悲しくなりました。でも涙をこらえて「お父ちゃん」の顔をじっと見つめ、力の限り抱きしめて別れを告げました。最後の最後まで「お父ちゃん」の病気のことは何も言わずに別れを告げることはできたのですが、飛行機に乗って、席に着いてからすぐ、今まで我慢していた涙がどっとこみ上げてきました。     

 

それから2年が経ち、母親から「お父ちゃん」が胃癌で亡くなったと手紙が来ました。でもそれは「お父ちゃん」が他界してから1か月もたったある日のこと。母親の手紙によると、「お父ちゃん」が息を引き取った頃は、おばあちゃんのご主人がカルガリー大学の卒業を迎えていた4月だったので、わざわざ気を使って連絡を1か月遅らせたのだという事でした。そういう訳で「お父ちゃん」の死を、亡くなった何日も後に知ったおばあちゃんは唖然としてしまいました そして「お父ちゃん」の死が近いことを2年前の日本訪問の時から分かっていたにも拘わらず、その通報をどう受け止めて良いのか戸惑いました。手紙を何回も繰り返して読み、「お父ちゃん」がもうこの世に居ないのだと実感した時は、何となく胸の中に穴がぽっかりと空いたような気さえしました。その後何日間は、「お父ちゃん」との思い出が繰り返し、繰り返し蘇(よみがえ)ってきて涙が止まりませんでした。特におばあちゃんの心残りになった事は「お父ちゃん」のお葬式に行けなかった事です。その事を、手紙を読むたびに、もう二度と会うことのない「お父ちゃん」に何度も何度も、遠いカルガリーから謝り続けました。   

おばあちゃんの母親からの手紙には、こんな事も書かれていました。

「お葬式は4月に済ませたので今さら慌てて日本に来なくてもいいのよ、日本に帰って来られるなら、お盆にお父ちゃんのお墓参りに来て頂だい。」 

そういう訳で、大学を無事卒業し新しい仕事に就いたばかりのご主人と、2人の幼い子供達をカナダに残して、おばあちゃんはたった一人で宇都宮の実家に帰りました。 

そしてお盆の日に宇都宮の家族と、前田家のお墓がある大田原まで車で行くことになったのです。その日は晴天で、おばあちゃんは色鮮やかな花をお墓の前に飾り、ひざまずきました。そしてお線香をあげて「お父ちゃん」の冥福をお祈りし最後のお別れを告げました。お線香から漂う煙がそよ風に揺られて天国に届くかのように見えたのはおばあちゃんの気のせいでしょうか。そしてお墓参りが終わってからは宇都宮の実家に帰り、一番上のお兄さんの家族皆で夕飯を囲み、尽きることのない生前の「お父ちゃん」の話をしました。 

おばあちゃんの日本滞在の間母親が用意してくれた部屋は、亡くなった「お父ちゃん」が以前使っていた6畳間でした。その部屋の北側には窓があり、その窓の左側には背の高いランプが一つ置かれていました。そして夜になると窓の外から透き通った白いカーテンを通して青白い月の光が部屋の一部をぼんやりと照らしていました。   

その晩、カナダからの長旅と、お墓参りですっかり疲れていたおばあちゃんは、亡くなった「お父ちゃん」が生前使っていたベッドに横たわりました。そして「お父ちゃん」との思い出に浸りながらいつの間にか深い眠りにつきました。それから何時間たったでしょうか。何かを肌で感じ、おばあちゃんは急に目を覚ましました。そしておばあちゃんの目は一瞬、5メートルほど離れた北側にある窓際に集中しました。 

信じられない事がその時起こったのです。亡くなった「お父ちゃん」が窓際で青白い月の光に照らされて、何かを言いたそうにおばあちゃんをじーっと見ていたのです。 おばあちゃんは驚いてベッドの上に起き上がり、自分の目が信じられなく両眼をこすりました。そしてまた窓の方に目を向けました。でも、その時には「お父ちゃん」の姿はそこから消えていて、窓の左側にあるランプだけが月の光を浴びて部屋の中に影を差していました。初めは、背の高いランプが「お父ちゃん」の姿に見えたのではないかとおばあちゃんは自分の目を疑いました。でもそれは納得のいかない事でした。 何故ならおばあちゃんは、パジャマ代わりに「お父ちゃん」がいつも着ていた、白に青地の柄のユカタをはっきりその目で見たのです。 

「お父ちゃん」は、おばあちゃんに最後の挨拶に来てくれたのだと思います。

第三話 - タツ子姉さんの夢

おばあちゃんがまだ高校に通っている頃、おばあちゃんの2番目のお兄さんが結婚しました。結婚式は、お兄さんが住んでいた栃木県今市市で行われました。その結婚式はあの頃にしたら珍しい会員制で行われ、皆が同じ金額のお金を出して今市の公民館で催されたのをおばあちゃんは覚えています。出席者の皆全員が結構派手におしゃれな恰好をしている中、新郎新婦の服装はまったく平凡で、まるで新社員が初めて会社に出勤しているような装いでした。新郎は地味なスーツ、お嫁さんのタツ子姉さんも青いスーツを着ての装いです。    

お兄さんは若いころから共産党に属し、党員の一人として、かなり熱狂的に自分を犠牲にしてまで共産党のために尽くしていました。彼は高校を卒業した後、お医者様になりたかったのですが、7人の子供がいる両親には医学学校にだすほどの余裕がなかったので、その夢はすぐに閉ざされてしまいました。そんな事が有って、彼は不公平な日本の社会を改めようと、共産党に参加したのだとおばあちゃんは思っています。 

党の活動の中で巡り合ったのが、看護婦であったタツ子姉さんでした。タツ子姉さんは小さい頃両親を亡くし、専門教育を得るのにとても苦労した人でした。ですから彼女は結婚後、お兄さんの傍で献身的に新聞配達までして共産党のために働いていました。二人とも真剣に世の中を変えようと必死に活動をしていたようです。看護婦と党の仕事をしながら、家事もし、お兄さんと2人の息子の面倒を見ていたタツ子姉さんは、あの頃日本にあまりいなかったスーパーウーマンだったとおばあちゃんは思いました。  

タツ子姉さんはいつも微笑みを浮かべていて、やさしい、でも芯の強い人でした。 黒縁の眼鏡をかけていたのでインテリにも見えました。そしてとても綺麗好きな人で、いつおばあちゃんが今市を訪ねても、家の中は部屋の隅々まできちんと片付いていたのです。 

おばあちゃんに今でも一番印象に残っているタツ子姉さんの思い出は、広間で髪を解いている姿です。鏡台の前にきちんと正座して、二枚に畳んだ真っ白なガーゼを一本一本ブラッシの毛先に通すのがタツ子さんの習慣でした。そして綺麗な手拭を肩にかけ、丁寧に髪を解き始めます。それが終わるとブラシの上のガーゼを前の方に少し引っ張って、その上に残った髪の毛やふけを綺麗に取り除いていました。それから縁側に歩いて行き、肩にかけていた手ぬぐいを取り、庭の方にそれを何回か軽く振りました。それが終わると、その手ぬぐいをキチンと畳んで鏡台の中にしまうのです。そんな几帳面なお姉さんは、おばあちゃんが時々今市に遊びに行った時は、どんな時でもとても親切に迎えてくれ面倒を見てくれたのです。     

お兄さんの結婚式から二十年近く過ぎたある夜、おばあちゃんはタツ子姉さんの夢を見ました。その頃におばあちゃんが見た夢はカナダに一緒に住んでいる家族や彼女の会社で起きた事の夢ばかりで、日本の家族の夢はほとんど見ていませんでした。ですからタツ子姉さんの夢を見た時は少し驚きましたし、また嬉しくも思いました。  

 

おばあちゃんの夢の中では、タツ子姉さんは眩しいほどの白無垢の花嫁衣装を着ていました。今市の公民館で行われた本当の結婚式の簡素な青いブルーのスーツの装いとは全く違っていたのです。そして結婚式は今市の公民館でなく宇都宮の実家で行われていました。実家では沢山のお客様が座れるよう、3つの部屋の襖(ふすま)が取り除かれ、その部屋の隅から隅まで親戚の人達が一人一人の前に置かれたお膳の前でお酒とおいしそうな食事を楽しんでいました。 

タツ子姉さんは、八畳間にある仏壇を背にして、結婚式に集まったお客様の方を向いて新郎であるお兄さんの傍で正座をしていました。そして静かに微笑んでおばあちゃんの方を見ました。それから両手を膝の前に合わせ頭をゆっくりと下げ、まるでお嫁さんがご両親に最後のお別れをいうかのように、おばあちゃん達に向かって丁寧なお辞儀をしたのです。角隠しと黒ぶちの眼鏡の隙間から、ちょっとだけ見えたタツ子姉さんの目が何となく印象的でした。  

久しぶりにタツ子姉さんに夢の中で会えたことを喜んでいたおばあちゃんだったのですが、翌朝、タツ子姉さんが前の晩亡くなったと日本のお兄さんから電話がありました。タツコ姉さんがそんなに重い病気にかかっていた事など何も知らなかったおばあちゃんは突然な悪報に驚きました。まだ50歳なったばかりの若い命が一つ消えました。 

あんな夢を見たのはタツ子さんが最後のお別れに来たのではと、おばあちゃんは思いました。   

第四話 - ヴェエラ叔母ちゃんの悪戯

おばあちゃんの家はカトリック教徒なので、日曜日には家から車で8分ぐらい離れた教会のミサに毎週行っています。子供達が結婚して家を出てからは車の後ろの席はいつも空席だったので、随分前から老人ホームに住んでいるお年寄りたちを教会に連れて行ってあげるようになりました。ある年、家の近くの老人ホームに住んでいるヴェエラ叔母ちゃんからの依頼があり、彼女をおばあちゃん達が毎週行っている教会へ送り迎えする事になりました。彼女は85歳ぐらいの、とても気が強いけれど意外と優しい、話し好きなお年寄でした。 

ヴェエラ叔母ちゃんは何故かおばあちゃん達の事を初めから気にいったらしく老人ホームに迎えに行く度、嬉しそうに両手を挙げて抱擁してくれました。おばあちゃん達が彼女の不自由な体を支えてやっと車に乗せてあげると、ああでもない、こうでもないと教会に着くまでの間、彼女の若い頃の話をおばあちゃん達に話してくれました。 そしてその話を聞いておばあちゃん達が彼女に色々と質問したりすると、彼女は満足そうにいつも微笑んでいました。彼女を教会まで送り迎えしてから一年もたったでしょうか。ヴェエラ叔母ちゃんは高齢の為に一段と体が弱くなり、教会にも行く事ができなくなりました。それでもおばあちゃん達はクリスマスや復活祭の時には、彼女の老人ホームに会いに行き昼食を一緒にし、3人で楽しい時間を過ごしたりもしました。   

ある日、病気がかなり悪くなって、ヴェエラ叔母ちゃんは病院に運ばれました。彼女の娘さんから電話でその知らせを聞いたおばあちゃん達がお花を持って病院を訪ねると、彼女はとても嬉しそうに何度も何度もおばあちゃん達に感謝してくれました。

病院にお見舞いに行ってから1週間もたったでしょうか、おばあちゃんは会社の仕事の帰りに免許証を更新するために家の近くの免許事務所に行きました。その事務所についたのは5時頃だったと思います。事務所に入って一応書類関係の手続きが終わると、その事務所内で写真を撮るようにと指示されました。おばあちゃんはすでに何人かの人達が列を作っている場所に写真を撮るために加わりました。おばあちゃんの番がやっと来てカメラの前に座った時です。写真を撮っていた事務所の人が、   

「コンピューターが急に故障したので写真が撮れません。申し訳ありませんがまた明日にでも来てください.」

とおばあちゃんに言いました。それまではちゃんと機能していたのに、どうしたんだろうと思いながらおばあちゃんは仕方がなく家に帰りました。 

その夜、おばあちゃんの家にヴェエラ叔母ちゃんの娘さんから2度目の電話がありました。ヴェエラ叔母ちゃんの体調が急に悪化し、その日の夕方5時ごろに亡くなったとの事。娘さんは、ヴェエラ叔母ちゃんが亡くなるまで親切にしてあげた事をおばあちゃん達に感謝してくれました。それと同時にお葬式の話を始めました。ヴェエラ叔母ちゃんの遺言に従って、お葬式はおばあちゃん達の通っている教会で次の週に行われることになりました。その時にヴェエラ叔母ちゃんの大好きだったアヴェ・マリアをおばあちゃんに歌って欲しいと頼まれもしました。それはヴェエラ叔母ちゃんの遺言の一つで、亡くなる随分前から娘さんに伝えていた事だったそうです。おばあちゃんはその頃、アヴェ・マリア、パニス・アンジェリクス、オー・ホーリーナイトなどのソロを時々教会で歌っていたのです。ヴェエラ叔母ちゃんはおばあちゃんがそんな曲を歌う度、とても良かったといつも喜んで誉めてくれたのを思いだし、娘さんの頼みに応じることにしました。  

ヴェエラ叔母ちゃんの亡くなった事を知らされた翌日、おばあちゃんは改めて免許証の更新に行きました。その時おばあちゃんを覚えていてくれた事務所の人が、  

「昨日はとても不思議なことがあったんですよ。昨日貴女がこの事務所を去ってから2-3分後にもう一人のお客様がいらしたのですけれど、その時には修理してもいないコンピューターがちゃんと直っていたんです。その後もたくさんのお客様が来たのですけれど、その時からはコンピューターに問題が全然ありませんでした。」

とおばあちゃんに言いました。

「あなたの時だけだったんですよ、コンピューターが故障したのは。」

そう言われてすぐ、心の隅ではただの偶然かも知れないと分ってはいたのですが、コンピューターが故障した時はきっと、ヴェエラ叔母ちゃんが亡くなった瞬間かその直前だったに違いないとおばあちゃんは思いました。そして彼女が亡くなる前におばあちゃんに何かを伝えたかったのかもしれないとも。幸い2度目に事務所を訪れたその日は問題なく運転免許を更新することができました。  

それからも、ヴェエラ叔母ちゃんが亡くなってから葬式の日までに間に色々不思議なことが起きました。例えば、家のガレージのドアが壊れてもいないのに開け閉めが急にできなかったり、おばあちゃんの会社でコンピューターを使っている時に、マウスの機能が止まってしまい何時間か操作できなかったりしたのです。その上、家の二階のトイレの鎖が絡(から)まってしまい水が止まらなくなり、もう一つのトイレも誰も使っていないのに一時的に急に変な臭いが漂ったりしたのです。幸い、そんな出来事はただの悪戯みたいなもので何もしなくても元どおりになったので、おばあちゃん達には何も損傷はありませんでした。そんな事が何回も続いたのですが、そのような出来事をおばあちゃんは悪い方には取らず、

「ヴェエラ叔母ちゃんの悪戯(いたずら)のせいかな」なんてご主人に言い始めました。 

ご主人はそれまでは全く迷信を信じる人ではなかったのですが、説明できない不思議な事が4-5日の間に何回も続くので、少しはおばあちゃんを信じる様になりました。それからはご主人の方から、 

「またヴェエラ叔母ちゃんの悪戯かもしれないね。」なんて言いはじめた程です。  

とうとうお葬式の日が来ました。教会は満席で、ヴェエラ叔母ちゃんは沢山の親族、友達に囲まれ祭壇の前に置かれたお棺の中に静かに横たわっていました。うっすらとほほえみを浮かべていたヴェエラ叔母ちゃんは、最後のお別れに来た人々に惜しまれながら天国へと旅立って行ったのだと思います。おばあちゃんは心を込めてアヴェ・マリアをヴェエラ叔母ちゃんために歌いました。 

教会での盛大なお葬式も無事に終え、おばあちゃん達は家に戻ってきました。車が家の近くに近づくと、驚いたことに2人の警官が家の周りをうろついているではありませんか。なんだろうと思って、おばあちゃんのご主人は車をガレージに入れずに家の前に止めました。そして近寄ってくる警官に、    

 

「なにかあったのですか?」と彼らに尋ねると、

「貴方達はこの家の住人ですか?」と聞き返してしてきました。おばあちゃん達が頷くと、

「実はね、この家のアラームが15分位前に急に鳴り始めたとアラーム会社(警備会社)から連絡を受けたんですよ。そんなわけで、早急にここに来た訳です。泥棒が入ったのではないかと心配してね。」と、警官の一人がおばあちゃん達に言いました。     

それを聞いて慌てて家の鍵を開け、中を調べてみると、家を出た時と全く変わりがありませんでした。二人の警官もおばあちゃん達のすぐ後に付いて着て、家の中に入り色々調べてくれましたが、何の原因でアラームが鳴ったか全く見当がつかないとの事。ご主人とおばあちゃんは、「またヴェラおばちゃんの悪戯だ。」と思い、くすくす笑いはじめました。二人の警察官はおばあちゃん達の仕草が腑に落ちず、頭を横に振りながらパトカーに乗り、去って行きました。

その後何年かは、家のアラームも鳴ることも無く、ガレージのドアも直すことなくちゃんと機能して問題もありませんでした。おばあちゃんの会社のコンピューターのマウスも故障することなく、まるで何事もなかったように普通の生活に戻りました。 

第五話 - キャソリーン

おばあちゃんのご主人の2つ上のお姉さんの名前はキャソリーンといいます。キャソリーンはご主人の生まれたカナダのハミルトン市で、一生結婚をすることなく一人で長い間暮らしていました。でもご主人の両親が亡くなった後、ハンディキャプのある10歳下の弟を両親の代わりになって面倒を見る決心をして両親の家を継ぎ、随分とその家のために尽くした心の優しいお姉さんです。でも世話をしていた弟が他界してから数年後、煙草を吸い過ぎたせいでしょうか、キャソリーンは肺癌で亡くなりました。 

彼女が亡くなる少し前から、カルガリーに住んでいるおばあちゃんのご主人の妹メアリーがハミルトンに駆け付け、彼女の面倒を見てあげていました。メアリーはその少し前に定年退職していたので仕事を休む心配もなく、「姉さんのためなら」と言って、キャソリーンの看病をすることを決意しました。9月のある日、キャソリーンが亡くなったとメアリーから知らせが届き、メアリーの旦那さん、おばあちゃんのご主人、そしておばあちゃんはカルガリーから飛行機で4時間ぐらい離れているハミルトンに行ったのですが、この時また信じられない不思議な事がおきました。 

キャソリーンにはあまり友達もいなく宗教にもあまり携わっていませんでした。ですから亡くなる直前まで「私が死んだら、本格的な葬式はして欲しくない。」と、メアリーに何度も願ったのだそうです。そのため彼女の埋葬の時だけカトリックの神父様がお祈りを捧げるという簡単な儀式が計画されました。その式に参加することになったのはハミルトンに住むご主人の弟夫妻と、カルガリーから駆けつけてきたおばあちゃん達の、たった6人だけでした。そしてその儀式の後、6人でキャソリーンの晩餐会をするために近くのレストランに行くことになりました。 

埋葬が計画された日は雲ひとつない、すっきりとした晴天でした。遠く離れたカルガリーに住んでいるおばあちゃん達がハミルトンに来ることは久しぶりなので、墓地に出かける時間が来るまで皆でキャソリーンの住んでいた実家に集まることにしました。待っている間、久しぶりに訪れた実家の台所のテーブルを囲み、お茶を飲みながらキャソリーンとの色々な思い出を話し、ノンビリとしたひと時を過ごしていました。すると急に台所の窓の方からガタガタと音がしたのでおばあちゃんのご主人が窓の外を覗いたのですが、突然暴風が吹き始めたというのです。そしておばあちゃんが玄関から外を見た時には、激しい雨が地面や庭の木々を叩かんばかりに降り始めたのです。でもそれはたったの十分位続いただけで、そのあとすぐ強雨はやみ、雲も風とともになくなりまた綺麗な青空が見えてきました。この時ばかりは皆驚いて、まるで嵐があった事がうそだったように顔を出し始めた太陽を見ながら、あんな急な天気の変更は見たこともないと話し合っていました。でもおばあちゃんとご主人は「あれはきっとキャソリーンが皆にお別れを言いに来たんだ」と心の底で思っていました。  

埋葬の時間が来て、皆で家族のお墓がある墓地まで車で出かけました。10分ほど車に乗って、おばあちゃんのご主人の両親と弟も眠っている大きな墓地に着きました。 中に入ると小高い丘に敷かれた緑色の芝生は、雨の後で太陽の光を浴びてキラキラと輝いています。キャソリーンのお墓は両親と弟のお墓のすぐ隣で、そこには棺桶よりちょっと大きめな長方形の穴がすでに掘ってありました。おばあちゃんのご主人の家族はカトリック教徒なのでキャソリーンは火葬されず、お墓に埋められるのです。ですから彼女の棺桶は密封され、埋葬される場所の前に静かに横たわっていました。おばあちゃん達はまずご両親と弟のお墓の前に立ち、お花を捧げてお祈りしました。それからまっ白な大きなユリでいっぱいに飾られたキャソリーンの黒光りした棺桶の周りを囲み、カトリックの司祭者を待ちました。その間彼女のお棺の前でただ淡々と昔話を彼女に話し掛けるようにして皆で集いました。 

少し経つとカトリックの神父様がお見えになり儀式を始めました。神父様と共にキャソリーンのために皆でお祈りし、埋葬の儀式は15分位で無事に終わりました。そして最後におばあちゃん達は棺桶の上に大きな白いバラを一人一本ずつ供え、彼女に別れを告げたのです。それから皆でまだお墓が見える場所まで少し歩き、墓地で雇われている人達が、すでに棺桶の下に用意されていたロープを徐々に緩めキャソリーンの亡骸を厳かにお墓の中に下ろすのを見届けて、墓地を去りました。 

その後計画していた通り、晩餐会をするために墓地の近くの食堂レストランでまた6人一緒に集まりました。そこでは彼女の天国までの無事な旅を祈りつつ、時には涙を流し、時にはキャソリーンとの面白おかしい出来事を思い出しては笑ったりしながらその日の午後を過ごしました。     

晩餐会の後、次の日に仕事に行かなければならないおばあちゃん達は、午後5時にカルガリーに行く飛行機に乗るためにハミルトン飛行場に向かいました。でも不思議な事にそれ迄は晴天だった空が、おばあちゃん達が飛行機に乗った途端、強い風と雨が突全襲ってきました。飛行機の窓から外を見たのですが、激しい雨以外には何も見えなくなってしまったくらいです。それは埋葬の前にキャソリーンの家で起きた時と全く同じ現象でした。あまりの暴風雨で、一時はカルガリーへの飛行が中止になるのではと心配した程でした。でも10分もすると、また青空が見えてきておばあちゃんたちの乗っている飛行機はその後何事もなくハミルトン飛行場を飛び立ちました。おばあちゃんとご主人は顔を見合わせ、 

「きっとこれがキャソリーンの最後の、最後のお別れの挨拶なんだね。」

と話しあい、彼女のことを祈りつつ青空を見上げました。

第六話 - 兄予告

2012年の12月に宇都宮の実家に住んでいた大好きなおばあちゃんの一番上のお兄ちゃんが87歳で亡くなりました。生憎おばあちゃんはお葬式に参加できず、遠いカルガリーからお兄ちゃんの冥福をお祈りするのみでした。海外に住んでいるということはとても不便なことです。

その頃おばあちゃん達がカルガリーで住んでいた家は、2002年に新築したばかりの結構まだ新しい匂いのする家でした。ですからそれまで何も大きな修理をする必要も無かったのですが、お兄ちゃんの死後の翌年2013年の1月から翌年の4月の間には、下水道に関した幾つかの物に、たて続けに支障が出てきました。

例えば2階のトイレ2つが両方とも故障したり、地下にある廊下のカーペットに水が漏れたりしたのです。カナダの家には地下があり、ほとんどの新しい家は一階と同じように壁も床も綺麗に改装されています。そして地下にレックルームを作ったり、ゲストの寝室を設けたりして上階同様頻繁に使われています。おばあちゃんの家の地下にも、物置や炉室がある部屋以外は全部カーペットが敷かれていていました。ですから、びしょびしょになった廊下のカーペットへの水漏れを止めるために、早速水道屋さんを呼んだのです。でもどういう訳か水道屋さんが帰ったあと2、3日足らずでまた水漏れがあり、計3回も同じ水道屋さんを呼ばなくてはなりませんでした。その上にガレージのドアのリモコンが壊れてもいないし、電池も切れていないのに自動で開かなかったりしたのです。こんなことはヴェエラ叔母ちゃんが亡くなった時も経験したので迷信深いおばあちゃんは、お兄ちゃんの葬式に日本まで行かなかったので、天国でお兄ちゃんが怒っているのではと初めは思っていました。  

ところがその年(2013)の6月におばあちゃんたちの住んでいるカルガリーで大規模な洪水があり、カルガリー中心街のほとんどが浸水で被害を負ったのです。それまではカルガリーほど天災のない街は世界中にもあまりないだろうと信じていました。なぜなら、カルガリーは太平洋からかなり離れた、ロッキー山脈を越えた所にある街なので、津波などには全く縁がありません。活火山も近くには無いので地震などもアメリカの活火山が噴火した時に1度経験した位です。ですから、おばあちゃんがカルガリーにそれまで住んでいた40数年の間、天炎にはほとんど縁のない街だったのです。 

でもその年は、それでなくても雨季で普段より川の水が増えている6月に、ロッキー山脈に積もっていた雪が速いスピードで溶け、そしてその水がボウ川に合流して氾濫しました。そして予告も無しにその川の下流にあるカルガリーの街に洪水が押し寄せてきたのです。そういう訳でその洪水がカルガリーに着いた頃には、高度の低い街の中心部の土手からかなりの濁水が溢れ、沢山の高層ビルが今までに無い被害を受けました。その洪水はかなりひどかったので、世界でも大きなニュースとして取り上げられた程です。 

幸いおばあちゃん達の住んでいる家は小高い所にあったので普段の生活には被害は全く無かったのですが、娘から受け継いだコンドミニアムが街中心街にあったので、その場所はある程度被害を受けました。おばあちゃん達はその洪水がカルガリーにどんな影響を与えたのか毎日地方のテレビニュースを見ていましたが、そのニュースによると、街の中にある家々の地下は下水道から溢れ出てきた汚水で悩まされ、時間をかけて清掃しなくてはならない程でした。その上、地下に置いてあった家具等は衛生上危険でもあるので使えなくなり、全部処分するようにと市役所から勧められたりしたので、かなり大損害をうけたようです。 

それらのニュースを見ながらお兄ちゃんが亡くなった後に起きた様々な事をおばあちゃんは思いだし、ある日突然気づいたのです。お兄ちゃんは、おばあちゃんがお葬式に行かなかった事を怒っていたのでなく、おばあちゃん達の住んでいる街に洪水が来ると6か月前から予告をしてくれたのだと思い始めました。あんなに仲良かったお兄ちゃんでしたから、その方が理屈に合います。 

「お兄ちゃん、有難う」と心の底からおばあちゃんはお礼を言いました。  

第七話 - 911テロ事件   

2001年9月11日は世界中の人、特にアメリカ人が忘れることのできない同時多発テロ事件がおきた日です。ニューヨークにある国際貿易センターのツインタワーが一瞬のうちに崩壊され、3000人近くが亡くなり6000人以上の人々が支障を受けたあの恐ろしい事件。ロシアとの冷戦時代を乗り越え、やっと平和な世の中を迎えたかのように見えたその頃、宗教のために自分を犠牲にしてまでも戦うアルカイダに属する人々が私達に新しい恐怖を招き始めました。カナダに住んでいるおばあちゃんにとっても、ある特別な理由があってその日はとても印象に残っている日です。

日本人であるせいかおばあちゃんは少し迷信深く、自分で選択できる新しい電話番号や、銀行の口座やコンピューターのパスワードなどを決める時には4(死)と9(苦)の数字をなるたけ避けるようにしています。そして、たまたま時計を見て4:44分だったり、ニュースで4や9に関連した数字を見る事が一日に何度もあったりすると、後に何か悪いことが起きるかもしれないと、ちょっぴり不安にもなります。 

そんな不安な気持ちがおばあちゃんの人生で一番印象深く残ったのは2001年で、その年8月31日に始まりあの悲劇的なテロ事件のあった9月11日に終わりました。

おばあちゃんは今でもその日をはっきり覚えています。最初に不安な気持ちに襲われた8月31日。お昼休みに会社の近くで例年献血運動を催している、ある献血センターを訪れました。なぜあの頃おばあちゃんが献血をしていたかというと、日本に住んでいた二番目のお兄ちゃんがその数年前過労で倒れ、多量の献血が必要だったのです。でもカナダに住んでいるおばあちゃんは残念ながら直接献血ができませんでした。そういう訳でお兄ちゃんが必要としている時に献血をしてくれた人達に感謝する気持をこめて、カルガリーで献血をしようと決心したのです。そうすれば自分なりに納得がいくと思ったからです。そしてお兄ちゃん亡くなった後もおばあちゃんは献血を続けていました。 

8月31日の出来事に戻ります。献血所の受け付けで、要求されたおばあちゃんの個人情報を提供した後、待ち番号の札を頂いたのですが、その時の札が44番だったのです。なにか嫌な予感がして、“また来ます”、と受付の人に告げその札を返して、おばあちゃんは一旦そのオフィスから立ち去りました。10分程献血所の周りをうろうろと散歩してからまた受付まで戻ると、今度は56番の札を頂きました。その札を見てこれなら大丈夫と安堵しておばあちゃんは献血に携わりました. 

どういう訳かその日(8月31日)から始まって、9月10日迄の11日間、おばあちゃんは色々な場所で44の数字を見続けたのです。たまたま車の中やマイクロウェーブオーブン、そしておばあちゃんの腕時計に目をやると4:44分、夜中に起きてちょっと目覚まし時計を見ると4:44分、とにかく44の入った数字が頻繁に何処にいても見たのです。偶然だったと言ってしまえばそれまでなのですが、おばあちゃんにとってはとても気味の悪い経験でした。

それだけではありません。献血をしてから2-3日後、お昼休みに会社の友達と近くの公園に散歩に行った時の事です。住宅街を楽しくお喋りをしながら歩いていたのですが、ある家の前の庭を通ると、その頃カルガリーではあまり見たことのない真っ黒なカラスが何十匹も家の庭に屯(たむろ)っていたのです.1、2匹ではありません。何十匹もの気味の悪い真っ黒なカラスが、です。日本と違ってあの頃カナダで普段見ることが多かったのは、カラスとは思えないくらい綺麗なマグパイという白と黒の野鳥でばかりで、真黒なカラスをおばあちゃんはあまり見たことがありませんでした。嫌な予感がしてその家の前に止まって、じっとそのカラスを見つめていると、友達が「どうかしたの」と心配して尋ねてくれました。それ程おばあちゃんはその光景を見て不安を感じていたのです。    

不気味なカラスを沢山見た次の日の夜、NHKのニュースを見ていたのですが、その夜の一番大きなニュースは、東京で起きた火事のことでした。4階建ての建物が火事になり、中にいた人たちがビルの中に閉じ込められて、お店を訪れていたお客さん達など合計4人が死亡したのこと。  

そしてその翌日の夜、アメリカのメージャーリーグ、シアトルのマリナーズで活躍していた鈴木一郎選手がニュースに出ていました。その日に一郎選手が歴史的に何かを達成したという素晴らしい報道でしたが、144の入った数字がニュースの中で触れていたのだけは覚えています。多分ホームランの数だったと思いますが、あまり昔のことではっきりは覚えていません。おばあちゃんはそのニュースを見て、本当は一郎選手のアメリカでの成功を讃えるべきだったのでしょうが、なんとなく気味が悪い思いをしたのが本音です。最近、彼の2001年の打撃レコードを、インターネットを使っておばあちゃんは必死で調べたのですが、それを裏図ける一郎選手の記録は残念ながら何処にもありませんでした。 

多分その翌日だったと思います。新しい家を買うために、建築会社の勧める家やまたは空地を選ぶために、おばあちゃんはご主人と一緒に不動産から勧められた幾つかの場所を訪れました。なぜその頃家を新築する事になったかというと、カルガリーに住んでいるおばあちゃん達の息子に二番目の子供ができる予定だったからです。孫達の面倒を見るのには、なるたけ息子の家族の近くに引っ越ししたほうがよいと息子夫婦とおばあちゃん達は同意しました。何件かの新しい家を見て回った後,2-3の空き地も訪れました。その一つの空き地に、真っ黒なカラスがまた何十匹も屯っていたのです。黒光りした羽を羽ばたき、奇妙な声を放ってお互いをつつきながら… その不気味な光景を見たときは足が竦む思いをしました。勿論その空き地はおばあちゃん達の家を建てる候補から外されました。     

とにかく献血をした8月31日の後、毎日数字の“44”を時計、看板、スポーツ選手の背番号、そしてテレビのニュース等で頻繁に見て、おばあちゃんの不安は日ごとに高まりました。

9月9日の夜はアメリカのテレビ番組で、あるスパイ映画を見たのですが、その内容は戦争と死についてでした。それは何となく、暗く不吉な映画で、おばあちゃんは見終わってからもっと嫌な気分になりました。 

そしてテロ事件の前日、9月10日にはNHKのテレビ番組で広島原爆の映像を放映していました。毎年そのような放映は原爆記念日の8月の6日か9日のみに放映されるのですが、その年は何故か9月の10日にも放映されていたのです。その映像で飛行機から落ちる爆弾が広島の街をあっという間に変え、街中の建物が灰に変わっていく姿をみて、おばあちゃんは体中が震えました。こんな不安な気持ちからいつ逃れられるのかなと思いながら、その日は眠りにつきました。そしてその翌日、あの恐ろしいテロ事件が起きました。  

9月11日の朝、おばあちゃん達は仕事に行く途中でラジオを聞いていました。7時半近くだったと思います。ニューヨークの国際貿易センターのツインタワーがアルカイダにハイジャックされた飛行機によって崩壊されたというのです。会社では皆その事ばかりを話していて仕事も手に付けられないくらいでした。おばあちゃんの働いている石油会社の建物もカルガリーではかなり高く聳える、56階もあるツインタワーの一つなので、もしかしたら狙われるのでは、と会社の周りの人たちは大騒ぎし始めました。 

おばあちゃん達は会社が終わり、家に帰ってからその悲惨な出来事をテレビで何度も何度も目にしました。ツインタワーが一つ、そしてまた一つ、あっという間に崩壊されていくその映像に2人ともお互いに言う言葉もありませんでした。おばあちゃんはその映像を見ながら、その日迄におばあちゃんの周りで起きた不思議な出来事、特に前日に見た広島原爆の映像を思い出し、どうしていいか判らない感情に襲われました。 

それらの出来事は全部テロ事件の予告だったのかもしれないと、その時初めておばあちゃんは思いました。    

不思議なことにはそのテロ事件が起きた後は、おばあちゃんは暫くの間、数字の44や、不気味な真っ黒なカラスを見たりすることがほとんどありませんでした。  

でも2004年の12月にタイで起きた津波があった事前には、何十回も“44”または“4”の数字を日常生活の中で見ることになり、おばあちゃんはご主人に「もうこんな思いは沢山だ」と言った事さえあります。今でもおばあちゃんは“44”の数字を見ることはしばしばありますが、なるたけ注目しないように心がけています。 悪いことが起きると思うととても苦しく思えるので。それに、そんな予告があっても、おばあちゃんには勿論それを防ぐことはできませんし…