第五章:エンジェル

母リンの悲鳴を聞いて隣の部屋で寝ていた娘のエンジェルが目を覚まし、母の部屋に駆け付けた。そして、ベッドの横の電気をつける。母は涙を流していたが、まだ夢を見ているのか目は閉じたままだった。

「お母さん、起きて。お願いだから起きてちょうだい!」 エンジェルが母を優しく揺さぶると、ゆっくりと目を開けたが、体はまだ震えていた。エンジェルは母を優しく抱き、静かに話し始める。

Short STory 5.5

「お母さん、大丈夫? きっとまた嫌な夢を見たのね。私がここにいるからもう大丈夫よ」

 

「エンジェル... あなたが私の傍にいてくれて本当に感謝してるわ」

母は自分の部屋のベッドにいることに気づくと、やっと落ち着き始めた。

「エンジェル、大好きよ。あなたは本当の意味での私の天使だわ。もう大丈夫、起こしてしまってごめんなさい」

「お母さん、どうしたの? 何がそんなに恐ろしいの?」

エンジェルは心から母のことを心配していた。母が悪夢を時々見ることは知っていたが、あんな風に夜中に叫んだのは随分昔のことだけだったからだ。エンジェルは子供の頃から母の悪夢に対処していて、以前は母が何かの病気にかかっているのではないかと心配していた事もあった。ベトナムに住んでいた頃は祖母が母を慰めていたが、アメリカでは親子二人だけなのでエンジェルが母を慰めなければならなくなったのだ。

「お母さん、話してちょうだい。そうでないとお母さんの悪夢はきっと止まらないわ。でも話してくれれば繰り返しそんな怖い夢を見ることは無くなるかも知れないわ」

「何でもないのよエンジェル。今夜はただ疲れ過ぎているだけ… レストランでの仕事が忙し過ぎて休憩時間すらなかったの。もう心配しなくてもいいのよ、ダーリン。傍にいてくれて本当にありがとう」

リンはエンジェルに嘘をつきたくなかったが、そうかといって本当のことを話す事はできない。愛しいエンジェルが、自分の人生で最も屈辱的で理不尽な経験によって生まれてきたなどということを、どうやって伝えることができるであろうか?

「もうベッドに戻ってちょうだい」リンはエンジェルを優しく抱きしめ、頬にキスをした。

「本当に一人で大丈夫なのね。わかったわ、お母さん。もう何も心配しないでぐっすり眠ってね」

リンを落ち着かせている間、ビルはリンの目を通してエンジェルをじっと見つめた。と、その時、エンジェルにはビル自身の母の面影があると気づいたのだ。顎の形、口元、リンを慰める話し方... エンジェルはビルの母ベスに信じられないほどよく似ていた。

「何という事だ! エンジェルは俺の母さんにそっくりだ。やっぱり俺の娘なのか...」

そう思うとビルは心が弾んだ。まさか自分が父親になれるとは思ってもみなかった。なぜなら数年前に、かかりつけの医者からビルと妻ヘレンの間には子供を授かることはできないと告げられたからだ。 「この子は本当に俺の娘なんだ...」と思うと突然ビルはエンジェルに深い愛情を感じた。ビルが過去に経験したことのない愛。この時ビルは母をどれほど愛していたかを思い出した。もう母と離れてから何年も経っているのに、自分がどれほど母を恋しく思っているかを急に実感したのである。

「ええ、本当にもう大丈夫よ」とリンはエンジェルに優しく言った。

リンがエンジェルにキスをした時、ビルは自分の魂がリンからエンジェルに移るのを感じた。ビルの魂が入ったエンジェルは母の寝室を離れ自分の部屋に戻った。日の出までにはまだ数時間はあったが、エンジェルはなかなか眠りにつくことができなかった。寝室の明かりをつけてしばらくベッドに座り、なぜ母が時々あんなに悪い夢を見るのかと疑問に思った。

エンジェルは過去に母にこんな風に尋ねたことがあった。

「お母さん、悪夢のことを私に話したくないのは知っているわ。だけどそんな夢は私が見ても怖いと思うわ。あんな風にお母さんが叫ぶのを聞くのは本当に大嫌い。そして、お母さんが涙を流しているのを見るのも嫌なの。お母さん大好きよ。だから教えてちょうだい。私に話せばきっと気分がずっと楽になると思うわ」

「エンジェル、こんな風な私を見るのが心配で嫌なのは知っているわ。でも、まだこの事を話すことはできないの。あなたはまだ若いし、本当のことを言うと・・・、私もその話をする準備が出来てないのよ。もっとあなたが大人になって私が十分な勇気を持てた時に話すことを約束するわ。ごめんね、エンジェル」

そういう訳で、母が自分に本当のことを教えてくれるのを今まで辛抱強く待っていた。でも、いつまでたっても、まだ話せないという母の返事はエンジェルをずっと戸惑いさせ続けた。

「私が大人になった時? いつまで待たなきゃならないのかしら?」

エンジェルには母に対して、もう一つ重要な質問があった。その質問は、なぜ母は父について全く話さないのかという事だ。

エンジェルが幼い頃、「お母さん、私のお父さんは誰? そして、お父さんの名前は?」と尋ねた。

「あなたのお父さんはアメリカの兵士だったのよ。でも、べトナム戦争中に亡くなってしまったの。名前はジョセフよ」

殆どの子供たちが自分の母親を疑うことなく信頼するように、エンジェルは母の話をこれまで信じてきた。母を心から信じていたからだ。エンジェルが父の事をもっと知りたいと思った時には、もうアメリカに来ていて、父の事を知る人が母以外には誰も周りにいなかった。その上、父についてはこれ以上聞かないようにと、母がエンジェルに何回か言った。とはいえ、質問することを禁じられたという事実は、エンジェルにもっと父の事を知りたいという好奇心を高める理由にもなった。

エンジェルは、会ったことのない自分の父のことを時々想像した。父は緑色の目をしたピエール神父のような人だったのだろうか、背は高かったのだろうか、髪は何色だったのだろうか等と。そして、年を重ねるにつれて、父に対する好奇心はますます高まってきている。その時、父の魂が自分の体の中にいて、あらゆる自分の感情を同時に実感していることを知る由もなかった。エンジェルはベッドの傍に膝まずき、母のために祈り始める。母を悩ませていたことが何であれ、その悩みがすぐに消えてしまうことを心から願った。エンジェルは自分を今まで守ってくれたのは母であることを重々知っていたからだ。自分の命を守るために母は死ぬことさえ恐れないであろう。エンジェルはそんな母を深く愛し、これからは、自分が母を助ける時が来たのだとその頃感じ始めていたのである。 母のためにお祈りをした後、ドレッサーの上にある古い写真を見上げた。それはベトナムを離れる直前に撮った写真だった。その中には祖父母、母、そして、エンジェルがみすぼらしい竹小屋の家の前で立っている姿があった。

「Bà ngoại và Ông nội (おばあさんとおじいさん)、どうか私の母を守ってください。お父さんに私の願いが届くなら、お母さんの悪夢を無くしてください。お父さん、まだ会ったことも無いけれど大好きよ」

とエンジェルは静かに囁いた。 ビルは自分の娘が父親を愛していると言うのを聞いてビックリした。

「どうしてエンジェルは、会ったこともない父親を愛することができるのだろうか? 俺を全く知らないのに」とビルは思った。 それと同時に、その優しい言葉に深く感動した。

エンジェルは立ち上がると、大切にしているその写真を自分の胸にあてる。それは母がベトナムから持ってきた唯一の写真だった。その写真を見てエンジェルは、ベトナムに残してきた最愛の祖父母のことを思いだし始めた。もう十数年も過ぎ、遠い昔の記憶になりつつあったが、祖母の子守唄を聞きながら、おんぶしてもらったことも覚えている。その子守唄は忘れることのできない美しいメロディーだった。そんな思い出もあれば、祖父母がエンジェルの両手を取り、空中にエンジェルを振り上げたり下げたりした思い出も。そうすると幼いエンジェルはあまりにものスリルに嬉しい悲鳴を上げる。でも、最も忘れられない思い出は祖父の腕に抱かれ、祖母の手を取り、遠くの山々の間に沈む夕日を3人で眺めた事だった。それらの懐かしい思い出は、エンジェルの心の中で今でも暖かく生きているのだった。

Short Story 5.2 

そんな思い出に浸っていた時、エンジェルは急に村の子供達の事を思い出した。その子供達はエンジェルを「bụi đời(生命の塵)」と呼んだ。エンジェルはその頃はまだ幼すぎてその言葉が何を意味するのか全く理解できなかった。そして、その子供達はエンジェルに土や小石を投げつけたのである。時々、子供達の親が同じ場所にいたが、親達はそんな状況を全く無視し視線をそらした。子供達にそんな風に虐められたエンジェルは、一人ですすり泣くことが多かった。その記憶は長い間エンジェルを苦しめる。小さい頃はどうしてそんな扱を受けなくてはならなかったのか全く理解できなかった。エンジェルは家に戻りリンにそのことを話したが、リンにできた事はエンジェルをしっかりと抱きしめ慰めることだけだった。その頃はリン自身もまだ子供で、エンジェルと一緒に泣くこと位しかできなかったのだ。そんな幼かったリンが、その後どんな時でもエンジェルのために一緒に泣いてくれ、一生エンジェルにとって、かけがえのない母親になるなどとは知る由もなかった。

 

Short Story 5.4

 

Short Story 5.1

「bụi đời(生命の塵)」または「mỹ lai(アメリカ人とベトナム人の混血)」と何故呼ばれていたのかをエンジェルが理解するまでには数年かかった。エンジェルがいつも村はずれとして扱われていたのは、村人にとって混血児は何の価値もなかったからである。さらに、エンジェルは明るい栗色の髪、白い肌の色、茶色の目をしていて、ベトナムの他の子供たちとは容姿がまったく違っていたのだ。そういう訳で外見だけをとっても、村人はエンジェルが自分の子供達と交わることを許さなかった。そして、エンジェルが父親のいない子供であることがさらに状況を複雑にし、もっと悪い事に、たとえ侵略した理由が自分達の国を守るためであっても、エンジェルはベトナムを侵略した虐待者の子供だと思われていたからである。

リンがなぜ母国ベトナムと愛する両親の元を離れ、アメリカに住むことを決めたのかをエンジェルが理解し始めたのはその何年か後の事である。ベトナムで経験した継続的な虐めからエンジェルを守るために、そして、エンジェルが他の場所でより良い生活を送れることを願うリンの強い愛があったためだ。

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エンジェルがそんな思いにふけっている時、ふと、母と一緒に通っていたサイゴンのカトリック教会を思い出した。その教会は背の高い茶色のゴシック様式の建物で、中央の屋根の真ん中に十字架があり、その両脇にある2つの塔は、その教会を取り巻く他国の景色とその文化に反抗しているかのように空に向かってそびえていた。正面玄関の重いドアを通ると、中には教徒たちが会話ができるホールに繋がっている。聖域(サンクチュアリー)の中に入る前にはもう一つ扉があり、皆その扉を通って中に入る。だが、母はエンジェルがまだ小さかったため、子供達のために設けられ、祭壇を見下ろすことができる二階のバルコニーにエンジェルを連れて行くのが常だった。

Short Story 5.6

二人はミサがなくても教会を訪ね始め神に祈った。エンジェルは母が何を祈っているのか完全に理解はできなかったが、ただただ母の口真似をしていた。二人がお祈りしていると時々会いに来てくれ、時には一緒に祈ってくれていたのはピエール神父だった。彼はいつも温厚でエンジェルに優しく接してくれる。エンジェルはピエール神父が大好きだった。村人とは全く違う綺麗な緑色の目をしていて、その目はいつも穏やかで愛に満ちていてとても印象的だった。エンジェルは時々ミサの準備をしているピエール神父の一部始終を真似しながら彼の後をついて回った。そして、ピエール神父が自分の真似をしているエンジェルの存在に気が付くと、二人とも立ち止まり顔を見合わせ大笑いをする。その笑い声は教会に響き渡った。エンジェルはその軽やかな笑い声を聞くのが大好きだった。そんなピエール神父が傍にいる時は、とても幸せな気分になる。エンジェルは逢ったこともない自分の父親は、ピエール神父のような人だと自分勝手に想像していたのだった。

エンジェルは教会で会った子供達の何人かが、自分に良く似ていたことを覚えている。その子供達は殆ど白人とベトナム人の混血児達だった。エンジェルはそのうちの数人と親しくなる。時には肌は黒いのにブロンドの髪と青い目をしている子供もいた。栗色の髪と茶色の目、エンジェルと同じように色白の肌をしている子供もいる。その子供達はみんな母と同じ境遇の中、教会を頼ってきていたシングルマザーの子供達だった。そんな子供達と一緒にいる時は、エンジェルは虐められることを心配する必要はなかった。エンジェルは初めて自分らしく行動でき、そんな友達と一緒に楽しむことができた。お互いに同じ状況にいることを何となく解っていたからだ。

ベトナムを離れることを決めた母はエンジェルに新しい国に引っ越すと伝えたが、実際に何を母が言っているのかエンジェルには良く理解できなかった。まだ6歳になったばかりで、外国に住むという概念は全く想像できなかったからだ。幼いエンジェルが理解できていたのは神父様達や修道女達はどこか別の遠い国から来ていて、それは外国といって、そんな国に自分がこれから住むのだということだけだった。母はベトナムを離れることに対して興奮していたが、祖父母が母の決心にかなり動揺していたことも、何となくエンジェルは覚えている。祖父母がそんな思いをしていたのは、可愛い娘と唯一の孫娘を同時に失うことを恐れていたからだ。祖父母は二人をとても深く愛していて、できるなら離れたくなかったのである。しかし、エンジェルのためには二人が別の国で暮らすことが最善であると痛感し、最終的には躊躇しながらも同意してくれた。

二人は古い貨物船に乗り母国ベトナムを離れ、アメリカへと長い旅を始める。ベトナムの土地を離れるその日は、両親と最後の別れを告げなくてはならなかった。リンの憂鬱な心を覆い隠す程美しい秋晴れの日だった。その船の中でエンジェルは教会で知り合った友人やその母親達を見かけた。ピエール神父がリンとエンジェルのような境遇にいた教徒達をアメリカに送る手配をしてくれたのだ。その事を知ったのはそれから何年も先の事である。エンジェルはこの時初めて、なぜサイゴンの教会のミサの後、母がそんな教徒達と何回か会合に出席したのかを理解した。アメリカに行く計画の詳細や新しい国での生活の情報を得ていたのだ。

母からアメリカに船で行くのだと聞いた時、幼いエンジェルは何を期待して良いのか全く解らなかった。貨物船の狭いキャビンの中で他の家族達と過ごす事などとは、夢にも思ってい無かったのだ。みんなと共有しなければならなかったキャビンは窮屈で歩き回るスペースさえ無い。エンジェルは他の子供達と遊びたかったが、波立つ海上のデッキで遊ぶのは危険すぎるので、息苦しい廊下で遊んだ。ほとんどの乗客はそれまで船に乗ったこともなく、頻繁に海が荒れたためみんな船酔いで苦しんだ。船上で提供される食料は量も少なく、その上、船酔いのため胃の中にとどめることが難しかった。そんな病気のような状態と混雑したキャビンの中での生活は、気の遠くなるほど不愉快で、何日か経つと自分の周りの空間や心地良さを求めてみんな言い争いを始める。アメリカでもっと自由に暮らせると信じ、希望に満ちていたはずの旅は怒りと挫折に満ちた旅になり始めた。 そんな状況の中で何日も過ごし、時には激しい嵐の中を船は航行し続け、ついにリンとエンジェルはロサンゼルス港に到着したのだ。

アメリカに到着してから数日後、ロサンゼルスのカトリック教会の援助を受け、リンはウェイトレスの仕事に就くことができ家具付きの小さなアパートを借りた。リンは教会の人々に支えられ、エンジェルのために身を粉にして働いた。幸いにもリンが夜働いている間も近くの教会の人達がエンジェルの世話をしてくれたのだ。初めの頃は外国での生活は二人にとって辛いものだったが、少し生活に慣れてくるとベトナムでの生活よりもはるかに楽しいものになった。船の中で一緒に過ごした何人かの母親達は英語を全く話せなかったため、何ヶ月も仕事を見つけることができなかった。そんな状況にいる母親達を見てリンはどんなに幸運であったかを身に染みて感じた。ベトナム国民はフランス語を話せたが、アメリカで仕事を探すのにはフランス語は全く役に立たなかった。時が経てば経つほど、ロサンゼルスは故郷のベトナムとは全く違い、多くの異なる国籍を持った移民者達が住んでいることに気が付いた。そんな事実がエンジェルの心の安らぎになり、より快適に毎日を過ごせるようになったのである。アメリカに住むようになってからエンジェルは初めて自分が混血児である事に恐れを抱かなくなった。

エンジェルは賢い少女であり、教会でリンが英語で会話しているのをよく聞いていたので、1年も経たないうちに成績がクラスでトップの生徒になる。そして、英語でもっと自由に会話ができるようになると、学校や近所にも沢山の友達を作ることができた。その上、州内の多くの賞を受賞するようにもなり、他の生徒からも尊敬されるようになる。アメリカでも多少の偏見はあったが、それでもベトナムで経験したこととは比べ物にもならなかった。少なくとも誰も石を投げたり卑劣な名前でエンジェルを呼んだりはしなかったからだ。 エンジェルが小学3年生を終えた後、リンとエンジェルは別の都市に引っ越した。サイゴンを一緒に離れたリンの友人の一人が、南部の中規模の都市に二人を誘ったのだ。ロサンゼルスでの生活は悪くはなかったが、大都市よりも故郷のようなもう少しゆったりとできる街でリンはエンジェルを育てたかった。リンはロサンゼルスの小さなアパートに住んでいた間、毎月少額ではあるがコツコツとお金を貯め続けた。その貯金を頭金としてリンは新しい街に小さな家を買うことができたのだ。古い家だったが改装されていたので内部はほとんど真新しく、エンジェルはこの時初めて自分の寝室を持つことができたのである。

リンは新しい街で今までの経験を生かして食堂関係の仕事を探した。履歴書を出して間もなく、あるレストランでマネージャーとして雇われた。リンの経験、外見、そして、前向きな態度がかなり好印象だったからだ。引っ越しして間もなく隣人と親しくなり、その隣人がレストランでリンが夜間勤務中の時は、エンジェルの世話をしてくれることになった。その隣人にも2人の小さな子供がいて上の子はエンジェルと同じ年だった。その隣人は韓国からの移民で、その子供達はエンジェルのように混血児で父親は純粋な韓国人、母親はアメリカ人と韓国人のハーフである。親しみやすく、親切で、その上、二人の子供達は良く躾けられていたので、リンはその隣人を信頼しエンジェルを預けることにした。

Short Story 5.7a

引っ越ししてしばらくたつと仕事のストレスから離れ、家で寛(くつろ)ぐため、リンは絵を描き始める。年月が経つにつれ、簡素な家は彼女の絵で飾られ始めた。英語での語学力が完全ではなかったので、言葉で表現できなかった自分の気持ちを絵で表したかったからだ。そういう訳で時間を惜しむことなく絵を描き続けた。エンジェルが16歳になる頃には家の壁にはリンの絵が家中に飾られていた。そのほとんどがベトナムの風景である。エンジェルはリビングルームに飾られていたクリムゾン色(深紅・真紅)の油絵が特に好きだった。その中には野菜や果物が入ったバスケットを持つべトナムの女性や牛などがチャコールで描かれ、クリムゾンの背景にあちらこちらに配置されている。ベトナムの情景がキャンバス全体に描かれているので、その絵を見るたびにエンジェルの心に響き、祖父母が住んでいるベトナムの村に戻った気分にさえさせてくれた。そのクリムゾンの背景はエンジェルに祖父母と見た夕日を思い出させ、その夕日を一緒に眺めているような感覚に浸ることができたのだ。その度にエンジェルの目には涙が浮かんだ。エンジェルは祖父母が恋しくてたまらなかった。

エンジェルが16歳になった時、リンは自宅で盛大な誕生日パーティーをエンジェルのために開いた。ケーキの上のロウソクに火が灯され、エンジェルがその火を吹き消した時の願いは、母の秘密を、母を苦しめていた過去をいつか自分に話してくれることだった。そうすればエンジェルは母の苦悩に一緒に立ち向うことができる。そして、そんな苦悩から母をいつか開放したいと願っていたのだ。とにかくエンジェルは母が幸せになることを心から望んでいた。

そのパーティーには隣に住んでいるエンジェルのボーイフレンド、ディーン・ソンホも来ていた。エンジェルはとても社交的で高校でもとても人気があったため、多くの友人達も出席していた。ベトナムで受けた虐めはエンジェルを強くしてくれただけでなく、いつも思いやりを持ち、寛大であることを教えてくれたのだった。その結果さまざまな民族的背景を持つ人々がエンジェルに引かれた。白人、黒人、ヒスパニック、アジア人。驚くべきことに皆、まるで一つの家族の一員であるかのようにお互いを尊敬し接した。 ディーンの母ジャッキーはエンジェルが幼い頃、夜の間エンジェルの世話をしてくれた女性である。エンジェルとディーンは同じ年齢だったため、いつも一緒に学校に通っていた。エンジェル、ディーン、そして、ディーンの妹キャシーは、小さい頃は一緒に遊ぶことが日常であったと同時に、いつしか兄弟以上に良い友達になったのである。祖父がアメリカ人だったのでディーンは背が高く、肩幅が広く、かなりハンサムな若者だった。そして、とても優しく、礼儀正しく、ユーモアのある青年である。ディーンはエンジェルと一緒にいる時は冗談を言い彼女を笑わせたので、エンジェルはいつも幸せに感じていた。一緒にいるとエンジェルは、ベトナムでの子供時代の不愉快な思い出をすべて忘れることができた。エンジェルの恐怖や怒りはディーンの傍にいる時はいつも吹き飛ばすことができたのだ。ラテン音楽、好きな食べ物、友達からのプレゼントに囲まれてエンジェルの16歳の誕生日を祝い、彼女にとってそのパーティーは笑い声に包まれた思い出深い夜になった。パーティーを終えて皆家に帰った後、ディーンはエンジェルに近くの公園へ少し散歩をしようと誘う。エンジェルはまだパーティー気分で興奮しており散歩中ずっとおしゃべりをし続けた。二人が公園の入り口の門をくぐった数分後ディーンは突然立ちどまり、エンジェルを優しく腕に抱きキスをした。エンジェルはディーンの急な行動に驚いて数秒間フリーズする。それは二人の初めてのキスだった。心臓がときめき始めその瞬間を体中で感じると、エンジェルはディーンを優しく抱きしめ返した。二人は数分間そのまま立ち止まる。それから、一言もしゃべらずにお互いの家に戻った。

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エンジェルは今でもそのキスを覚えている。母が悪夢でうなされたその夜も。そのキスを思い出すたび頬が紅潮するのを感じ、目を閉じ、唇を指で触れる。 ディーンへの思いを抱きつつエンジェルはその夜やっと眠りについた。エンジェルはディーンに出会ったことを心から幸せに感じた。翌日はディーンと一緒に教会に行く予定である。

日曜日の朝、リンとエンジェルは教会に行くために正装し家を出ると、明るく涼しい朝が二人を迎えてくれた。玄関のドアに鍵をかけ道路の方を見ると、ディーンはもう外で二人を待っている。エンジェルの目を通してビルの魂はディーンを見た。彼は背が高く少し色黒でハンサムな青年だった。教会ではエンジェルとディーンが並んで座り、その二人をリンは笑顔で見守る。ミサの直後ディーンはリンにエンジェルを食事に誘っても良いか尋ねた。ディーンはいつも礼儀正しくリンに敬意を払っていたので、躊躇することもなく二人のデートを許可した。エンジェルがディーンと一緒にいる時はいつも幸せそうだったし、自分自身もディーンを我が子のようにこれまで可愛がってきたからである。ディーンは10歳の時に悲惨な事故にあった。その経験から自制心を学び、事故で打ちひしがれたディーンの父をずっと支えてきた、たくましい若者だということもリンは知っていた。そして、そんなディーンの成熟度と前向きな姿勢を常に尊敬していた。過去からある程度解放されて明るく振舞うディーンとは異なって、リン自身はまだ昔の暗い記憶を振り払うことができない。神を信じることでリンは毎日を乗り越えることはできたが、夜になると今でも恐ろしい記憶が彼女を悩ませたのだ。

リンと別れた後、二人は教会の近くにあるショッピングモールのフードコートに向かった。もうお昼が近かったのでとても混雑している中、ディーンはハンバーガーセットを二人分買い求め、エンジェルが座っている比較的静かな場所に向かって歩き始める。エンジェルの中にいるビルの魂はそんなディーンを注意深く観察し始めた。そして、エンジェルを見る眼差しから、ディーンが心からエンジェルに恋をしていることが十分に伝わってきた。エンジェルの方もディーンが近づくにつれ心臓の鼓動が速くなり、二人は相思相愛であるとビルの魂は感じる。ビルはこの状況を受け入れることができず叫びたかったが、それもできずエンジェルの体の中でもがいた。

「この男じゃダメだ。白人じゃないこの男に、俺から娘を奪うことは絶対に許さない!」

ビルの魂の怒りも知らずエンジェルはジュースを静かに飲み始める。そして、

「ディーン、昨夜も母さんが悪い夢を見たのよ。きっと恐ろしい夢だったと思うけど、母さんを起こすのに苦労しちゃった」 と言った。

「大変だったね」

ディーン自身も過去に家族二人を失った経験をし、父が時々悪夢を見ていたため、心から同情して言った。

「でもね、母さんはまだその夢が何なのかを私に話したがらないの。私が大人になったら教えてくれると言っているんだけど、それがいつになるかは分からないから、心配で心配でしょうがないの」

そう言うとエンジェルはディーンの顔を見上げた。

「君の気持は分かるよ。僕の父さんも同じだから。父さんもそんな時は僕に何も言わないんだ」

とディーンは飲み物に手を伸ばしながら答えた。 するとエンジェルは、

「母さんが若い頃に何かが起こったに違いないわ。何か恐ろしいことが... それは何だったのかしら?」

と言い、再びディーンの目を見た。エンジェルの話を聞いている間、ディーンは自分の父のことを考えずにはいられなかった。父も時々悪夢を見ることがあったからだ。エンジェルの母親と違ってディーンの場合はその悪夢がなんであるか知っていた。なぜならディーン自身も同じような悪夢に時々襲われていたからだ。それは単なる悪夢ではなく6年前にディーンが母と妹を亡くした実際の夜のことを、繰り返し繰り返し夢に見ていたのだった。

「ディーン、私の言うことを聞いてる?」

「ああ、ごめん。父の事を考えていたんだ。僕の父さんもいつも悪夢を見ている。父さんは日中でもよく泣いているよ」

「そうなのね...」エンジェルはディーンと彼の父親が経験したことを思い出しながら言った。

「君も知ってる通り、ほとんどの人間は過去に何か辛い事があり、それに悩まされている。そして、それが何であるかを他人に伝えるのは簡単ではないよね。だからお母さんが君に話す準備ができるまで辛抱しなきゃならないね」

「あなたの言う通りだわ...でもあまり待たなくて済めば良いのだけれど。母さんを悩ませているものが何なのか知らないのは耐えられないわ。とっても大切な母さんだから…」

二人はお互いの親たちの苦しみを感じながらしばらく黙って座っていた。 そして、食事が終わりテーブルを去ろうと立ちあがった時、白人ティーンエイジャー二人が故意にディーンにぶつかってきたのだ。その二人はフードコートを出ると、勝ち誇ったように振り返り笑いながらディーンとエンジェルを指差した。二人がぶつかってきた時、ディーンのプラスチックのトレイの中身が床一面に散らばってしまったので、エンジェルはディーンと一緒に身をかがめてポップ缶と紙皿を拾い始める。ディーンは亡くなった母と妹の事を思いだした直後にそのことが起きたため、ティーンエイジャーに対してどうしようもない怒りを感じた。母と妹の死が人種差別に関連していると感じていたからだ。ディーンは二人を追いかけ文句を言いたかったが、そんなことをしたら大事になることを心配し何も言わずに唇を噛んだ。この怒りのままでは喧嘩になると知っていたのだ。だから、ディーンは自分の手を固く握りしめティーンエイジャーから目をそらした。

「僕はあいつらと平等に扱われないことに、うんざりしているんだ」ディーンは呟いた。

「肌の色が違うというだけで、あいつらは僕の方が劣っていると思ってる」ディーンはエンジェルに囁いた。

「あいつらは自分達がやったことは正当だと思い、そんな行動を誰も非難しないと思っているのだろうか? あいつらが白人だからといって自分達が優れていると思っているとしたら腹が立って仕方がない。僕が本気になればあいつらの首の骨を折ることもできたんだ。幸いにも僕は空手のクラスで怒りをコントロールすることを習っていたから誰もけがをしなくて良かった」と自分に言い聞かせた。

「私も同じ意見だわ」とエンジェルは言った。

「あの人達は本当に幸運だったわね。でも、もしあなたが空手の黒帯を持っていることを知っていたら、こんな風にあなたに振舞うことは絶対に無かったと思うわ」エンジェルは同情した口調で言った。

「あいつらが知らない事実は、僕が好んでアジア人に生まれたんじゃないことだ」ディーンは再び呟いた。

「私もそう、自分で選んだわけじゃないわ、ディーン」

エンジェルが床からフォークとナイフを拾い上げるとディーンを落ち着かせようと静かに話しかけた。

「僕達が生まれた国、肌の色、目の形、さらには話す言語はどこの誰が決めたのだろうかと時々疑問に思わないかい? 僕達が好きにそれを選べたらどんなに素晴らしいことだろう…」ディーンは言った。

それを聞いてエンジェルは椅子に座り直した。ディーンもエンジェルに促されて、しぶしぶ椅子に座った。

「そんなことが本当にできればいいのにね」エンジェルはディーンを見上げ突然ディーンに微笑かけ尋ねる。

「じゃー、もし自分で選べたらどんな人になりたい?」

エンジェルはさらに、ディーンを落ち着かせようと必死に話し続けた。ディーンは自分の怒りをエンジェルが静めようとしていることに気付き、無理やり笑顔を作り質問に答えた。

「ええと、僕はアメリカに生まれて、背が高くて色黒でハンサムで英語を話せる人になりたいな…」

「嫌だディーン... 全くあなた自身のことを言っているじゃない。それなら何が不満なの?」

エンジェルの意見は全く正しかった。祖父がアメリカ人だったのでディーンは背が高く、脚も長く、鼻も高い。そんな白人のような容姿を祖父から受け継いでいた。そして、一年中屋外でスポーツをしていたので日焼けもしている。実際ディーンはハンサムな若者だった。彼がアジア人だとわかる唯一の証は黒髪でアーモンドの形の目をしていたことだけだった。

「でも、あなたの言いたいことはわかるわ...」エンジェルは続けた。

「私は同じ問についていつも考えるの。肌の色や生まれた場所は誰が決めるのだろうかと。私達自身は親や人種、出生地を選ぶことはできないけれど、他の人達は私達がわざとその人達が嫌う選択肢をしたかのように差別したがるのよね」

「僕はそんな風に考えたことは一度も無いよ」ディーンはその言葉に好奇心を持ちエンジェルの目を見つめた。 エンジェルは続けた。

「さまざまな宗教についても考えるの。どんな宗教でも神や宗教の指導者は、人類が互いに愛し合うことを望んでいるけれど、宗教的信念の違いのために多くの戦争や憎しみが引き起こされてる。私にはそれが理解できないの。小さい頃お母さんは私をサイゴンのカトリック教会に連れて行ってくれたの。だからこれまでに旧約聖書や聖書、そして、いろいろな宗教についての本を読んだわ。でも私のそんな疑問に対する答えを見つけることはできなかった…」

「僕は差別や宗教について考える時、マーティン・ルーサー・キング牧師を思いだすんだ。 牧師は本当のヒーローだと思う。彼は黒人の自由のために戦ったバプテスト派の牧師で、僕は心から尊敬しているんだ」とディーンが言った。

「勿論そうよね。彼は本当のヒーローだった。キング牧師は黒人だけでなく、すべての人類のために戦ったんだもの。その上、非暴力を宣言しながら活動し、キリストと同じように最終的には人々のために死んでしまった。自分が信じていることのために暗殺されることがどんな風なのか、私には想像もつかないわ。隣人を愛することと人間の良識の大切さを唱える人達を、憎むだけじゃなくて殺害までするなんて、そんな事をする人たちは何を考えているのかしら?」

そんな思いをめぐらせながら、二人ともしばらく黙って座った。それから、エンジェルはこんな風に付け加えた。

「人類には宗教よりも、もっと別の人種差別があるのよね。例えば性別。学校で習ったんだけど、一部の国では女性は今でも動物よりもひどい扱いを受けているらしいの。アメリカに住んでいても女性は男性ほど良く思われていないでしょう? でもこんなことをあなたに話すべきじゃないわね。だってあなたは男だもの…」

そう言うとエンジェルは、くすくす笑いながら続けた。

「宗教、人種、性別の違いから生じた悲劇を説明するには、私の過去を話すことが一番わかりやすいと思うわ。私の母さんはベトナムを離れた後、アジア人としてだけでなく女性としてもアメリカで生活するのに苦労したの。女性だというだけで男性よりもかなり低い給料を受け取っていたのよ。そして、私自身は、まだ小さい頃、肌の色が他の子供より少し白いということと父親のいない子供であるという理由で、他のベトナムの子供たちから毎日虐められて、よく泣いていたのを今でも覚えているわ。そういう意味ではカトリック教徒であることはあまり役に立たなかったわ。だから、私と母は人生であらゆる種類の差別や虐め、痛みを過去に経験してきたのよ。私はまだ16歳なのに…」

それを聞いてディーンは自分を少し恥ずかしく思った。たかがこれくらいのことで怒りを露わにしてしまった自分が… それに比べ想像以上に苦しんできたのは目の前にいるこの若い女性なのだ。

そんな風にディーンが思っている事も知らず、エンジェルは突然恥ずかしそうに下を向いてディーンに言った。

「本当のことを言うとね、ディーンのお父さんが人種差別にもめげず、アメリカに来ることを決めてくれて良かったわ。お父さんがその決意をしなかったら、きっとあなたに会うことは無かったもの」

「僕たちは今まで多くの苦しみを味わってきたけれど、今、君がここにいるから僕は本当に幸せなんだ。愛してるよ、エンジェル」

ディーンはエンジェルの頬にそっと触れ、彼女の目をまっすぐに見つめた。エンジェルの目は嬉し涙で輝き始めている。 それから、ディーンはエンジェルの手を握り、こう言った。

「一緒にいれば何でも克服できるね?」

エンジェルの美しい顔が輝いていた。彼女の声は徐々に高くなり何かを宣言するかのように言った。

「いつか世界中に私達のような混血児がもっと増えれば、色々と異なる色合いの人類で一杯になるわ。そうすれば誰も差別されることもない世界になる…」

「君の言う通りだね。世界中どこに行ってもバナナやココナッツで溢れる日が来る...」ディーンは笑顔で言った。

「バナナとココナッツってどういう意味?」エンジェルが尋ねた。

「君と僕はバナナなのさ。どうしてかというと外見を見ると僕らの肌はやや黄色いけれど、アジア人の親達と違ってアメリカ人の様に振舞うよね。殆ど完璧な英語を話し、親達の国の伝統にはあまり従わないだろう? 要するに僕らの外見はバナナの皮のように黄色いけれど中身は白いんだ。わかる?」

「つまりココナッツは肌が黒い人のことなのね。面白い表現ね。私は自分がバナナだと思ったことは一度もないわ。でもあなたは本当にバナナ(英語:少し狂った人)に違いないわ。時々そんな風に振る舞っているでしょう?」

エンジェルは大声で笑い、ディーンも釣られて笑いながら言った。

「エンジェル、それは少し言い過ぎじゃない? 君はありのままの僕を受け入れてくれると思っていたのに… 君が困っている時、僕は君をずっと支えいつも守ってきたと思っていたのに…」

エンジェルは急に立ち上がり、まだ食べ物が残っている自分のトレイを持ち上げ、表彰状を渡すかのように頭を下げながらディーンに手渡した。

そして、「ディーン・ソンホ・リーが過去数年間に私に示したすべての紳士的な行動に対して、特に感謝したいと思います」

エンジェルとディーンは再び一緒に笑った。

「君の言いたいことは解ったよ… そろそろ帰ろうか?」ディーンは立ち上がりエンジェルのトレイを受け取った時、こう言った。

「あなたの感謝の気持ちを本当に嬉しく思います。ありがとう、エンジェル」

それから、静かにエンジェルに囁いた。

「僕らが狂ってるんじゃないかと周りの人に思われる前に早くここを出よう」