2:ヘレン

 

翻訳者:Yoko Galvin(前田洋子)

日本語訂正者:前田哲哉、前田かおる

 

ヘレンは寝室の窓から外を眺めた。暗闇の中、森林に囲まれた彼女の家は静かに佇んでいる。二階から見ることができた明かりは私道に沿って置かれた外灯だけだった。それらの外灯は、そよ風に吹かれ穏やかに揺らめいている。大きな木々の葉も外灯の光を受けロウソクの炎のように煌めいていた。

Helen 3adjustedヘレンの家は19世紀後半に建てられたビクトリア様式のお城のような建築物だった。入り口の二重のフレンチドアを開けると眩しく光るクリスタルのシャンデリアが頭上にあり、その玄関の真ん中から立派なオーク材の階段が左右に湾曲を描き二階まで続いていた。壁には何世代にも渡る家族の高価な油絵や肖像画が飾られている。ヘレンの曽祖父母の肖像画は両親からの結婚祝いの贈り物の一つだった。

一階には廊下を挟んで右側にリビング、左側に広いダイニングルームがあった。大きなキッチンはダイニングルームのすぐ後ろに在り、リビングは図書室に続いている。各部屋にはヘレンと夫のビルが長年にわたって集めてきた高価な骨董品が置かれていた。家の中にあるすべての物が居住者の富を反映している。表面的には何の不自由もなく、すべてを持っているように見えたヘレンだが、そんな物はもはや彼女にとってあまり興味がなかった。なぜなら、ヘレンはこの家には心の安らぎが全く無く、お金や所有物に何の関心も持てなくなってしまったからだ。

夕方から夜にかけて雨が降ってきた。使用人はすでに家に帰り、ヘレンは寝室でビルが戻るのを一人で待っていた。そして、気もむかないまま隣のバスルームに行き、お化粧をし直した。ヘレンはブロンドで青い目をしたひときわ美しい34歳の妻であったが、実際は20歳ぐらいに若く見えた。しかし、自分は本当にか弱い人間であり、周りの強い人間には逆らえずに毎日を過ごしてきたので、内面はもっと歳をとっていると感じていた。 ヘレンは長い髪をとかしフレンチブレイドにまとめ、ピンクの口紅をつけた後寝室に戻ると、ビルを喜ばせるために、金曜日の夜にはいつも着るエレガントなロイヤルブルーのドレスに着替えた。その頃にはもうすでに午後11時を過ぎていた。暫くの間あてもなく寝室を歩き回ってから、ベッドの傍で立ち止まり跪く。そして手を合わせ静かに祈り始めた。ビルが酔い過ぎず家に帰ってくること、自分に優しく振舞ってくれる事をその時祈ったのだが、心の奥底ではそのようなことが絶対に起こることはないとヘレンは知っていた。

数分後ヘレンは立ち上がり、再び寝室の周りをあてもなく歩き始めた。そしてビルが飲み過ぎて帰宅し、自分を虐待した多くの夜の出来事を思い出し、突然恐怖を覚え震えはじめた。そんなビルから逃れてどこかに隠れてしまいたかった。

ビルは平日は午後8時までに帰宅する。しかし金曜日の夜は例外で午後11時30分過ぎに酔っ払ってわめきながら帰ってくるのが常時だった。そして二階にあがると、寝室に設けられたバーでさらにスコッチを数杯飲む。その寝室でヘレンはいつも辛抱強く待っていた。ビルはヘレンを少しの間見つめてから、「その青いドレスは君に良く似合うね」と必ず言う。ヘレンは何も言葉を返さない。自分が何を言っても、これから起こることを変えることはできないとヘレンは知っていたからだ。それから、ビルは近づいて服を脱がせ何かブツブツ言いながら、さらに数秒間じっとヘレンを見つめる。そして、急に態度を変え怒りをもってベッドの上に押倒し、自分の意のままにする。通常暴力が始まるのはこの後だった。ビルにとって理由はどうでも良かった。ただ自分の怒りをヘレンに押し付けたいだけだった。いずれにせよビルは容赦なく殴ったのである。殴打は毎回起こったわけでは無いがかなりの頻度で行われた。ビルは必ずその後ヘレンに謝罪し、酒のせいだと言う。だが謝罪することはあっても、飲酒も殴ることも止めることはなかった。その夜もビルの虐待を避けられないことをヘレンは知っていた。

ビルを待っている間ヘレンは隣にあるクローゼットに入り、灰色のショールを細い肩にかけたが体の震えは止まらない。でも、そのショールを手にした時、ビルに恋をしていた頃を思い出した。十年前頃の事であったがビルのハンサムな顔がまだ鮮明に思い浮かぶのだった。

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ヘレンが初めてビルに会ったのは1974年の春、父が自宅でパーティーを開催し、そのパーティーに出席した時だった。ヘレンの父アールはその頃州で最も成功した金融会社の会長を務め、毎年春になると同僚や会社の有望な若者達を自宅に招待していたのである。今回はヘレンも招待された。アールはビルが会社に入社して以来、ビルの業績にとても興味を持ち、感銘を受けていた。そんなビルをこのパーティーでどうしてもヘレンに紹介したかったのである。アールは頭の良く切れる勤勉な義理の息子が欲しいといつも思っていた。そして、ビルに若い頃の自分を思い出させたことも理由の一つである。ビルが傍にいればヘレンは安心して生活し、きっと幸せになれるだろう、とアールは思った。

アールの家は1900年初めにヘレンの祖父によって建てられ、その地域ではかなり大きな家の一つだった。ヘレンの祖父は市内では成功した実業家の一人であり郊外に広い土地を購入し、自分の思う通りに家をデザインして建てたのだ。祖父はその家を誇りに思い、周りの人々が敬うくらい印象深い家であることを願っていた。

Helen 6貴重なアンティーク品が飾られたリビングの周りには約20人のゲストが集まっていた。すべてのゲストが到着するとヘレンは一対の湾曲した階段の片側からロイヤルブルーのロングドレスに真珠のネックレスとお揃いのイヤリングを身に着けて優雅に降りてくる。ブロンドの髪は巻き上げられ真珠が飾られたくしで止められていた。その美しさにビルを含むすべてのゲストの目がヘレンに向けられる。シルクのドレスはヘレンが一歩降りるたびに彼女の長い脚に巻きつかれるように踊る。ヘレンが階段の下までくるとビルは彼女の青い目を見つめ、その神秘さになぜか心を惹かれた。その瞳は熱帯の深い海のような色をしていたからだ。ビルはヘレンの美しさに身も心も奪われた。ヘレンはビルが想像していたよりももっと美しい女性だったのだ。

夕食前、アールはヘレンを傍に呼び、オフィスから招いた数人の若い有能な男性を紹介した。ヘレンは父の真の意図は知らなかったが、初めてビルを見た時からなぜか心惹かれた。父に似ているとヘレンは心の底で思った。ビルは父と同じように背筋をピンと伸ばし、自信に溢れた仕草で立っている。紺のストライプのスリーピースの下に真っ白なシャツを着ていたビルは際立ってハンサムに見えた。自分に好意を向けたヘレンの眼差しに気づくと、ビルはさらに意識し始める。、そして、ヘレンもそれまで以上にビルに意識するようになった。

食事前のビル自身の話によると、ビルは不幸な人々を支えようと努力しているという。ヘレンが思っていたよりも、もっとそんな活動の必要性を主張し、その志にヘレンも共感を覚えた。その上ビルはあらゆる種類のスポーツが好きだとも言った、特に馬に関するスポーツは… ヘレンは自分とこれほど多くの共通点を持ち、心惹かれる男性に今まで出会ったことが無い。ビルの情熱的な眼差しと威圧的な声にもヘレンは惹かれ始めた。ビルは人々と会話をする時に聞き手の注意を完全に引きつける何かを持っていたのだ。そしてビルが部屋の中のゲストを自分の会話でコントロールできるその能力にヘレンは完全に魅了されていた。

ヘレンはビルとの最初の出会いを父が密かに計画していた事に全く気づいていなかった。数日前にアールはパーティーの本当の目的を、自分の娘ヘレンに結婚を前提に逢って欲しいという事をビルに伝えた。ビルはその時アールの机の上に置いてあるヘレンの写真を見てその美しさに惹かれた。しかし、ヘレンが美しいということ以上に、資産家の娘であることにビルはもっと興味があった。ビルはこのパーティーを絶好のチャンスであると思った。なぜなら、裕福な経営者の娘と結婚することは企業や社会の梯子を上る最速の方法だったからだ。ビルにとって自分がヘレンを好きになるかどうかという問題では全くなかった。ビルの計画は自分に惹かれるように十分にヘレンを魅了することだった。ビルはパーティーの事を知らされた直後アールにヘレンの詳細を尋ねる。直接会う前にヘレンの好みを知ることで、本当の自分自身を隠してでも好かれるよう丹念に準備をしていたのだった。

ダイニングルームでは長いテーブルが真新しい白いリネンで覆われていた。その上にはクリスタルのワイングラス、銀のナイフ・フォーク・スプーン等、そして、銀縁取りが施された白い大きなお皿がそれぞれの場所に丁寧に配置され、テーブルの上の大きなシャンデリアから光を受けて煌めいていた。その部屋の照明は多少暗くしてあり温かみのある雰囲気を醸し出している。壁に取付けられたスピーカーから流れる柔らかなクラシック音楽が来客を優雅なムードに浸らせた。その雰囲気にぴったりと洋装したゲスト達はゆっくりとダイニングルームに集まってくる。

アールはヘレンとビルが隣り合わせになるよう意図的に座席を配置した。ディナーは豪華なメニューが企画されワインも次々に注がれた。そのワインを2杯程飲んだ後ヘレンは少し気が楽になり、ビルに積極的に話しかける。夕食後ビルはバルコニーに出て新鮮な空気を吸いに行かないかとヘレンを誘った。ビルと二人きりになる機会を得たことをヘレンは密かに嬉しく思い、二人はテーブルから離れバルコニーに出た。

月の光が照らす中で二人は心地よく、そして、延々と話し続けた。へレンは家の近くにある草原でお気に入りの馬に乗ったこととか、街の恵まれない子供達を助ける必要性をいつも感じていることとか、そして骨董品を集めることに情熱を注いでいることなどをビルに話し続ける。ビルは話を熱心に聞きヘレンの言うことには何にでも頷く。ビルの最初の意図はヘレンを自分に恋をさせることだったが、実際には自分がヘレンに恋をし始めていることに気づき始めた。ヘレンはビルがそれまでに付き合った女性とは全く異なっていて、ただ美しいだけでなく、優雅で、誠実で、とても知的な女性であると判ったからだ。実際に逢うまでヘレンは虚栄心と空虚な物質主義的な価値観に満ちた、甘やかされて育った金持ちの娘であると胸の底で思っていたのだった。しかし、ヘレンは全くその反対だった。ビルは二人には共通点が全くないと思っていたが、ヘレンと話しているうちに、もしかしたら心が通うことができるかもしれないと感じ始めていた。

その夜ビルはデートに誘い、ヘレンはビルの申し出を快く受け入れる。アールはこの二人を結びつける計画が上手くいっている事を知って喜び、プロポーズすることをビルに勧め、数か月後あっという間に二人は結婚することになった。

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Helen 29年経った今でもヘレンは聖ペテロ教会の鐘の音や結婚式で奏でられた美しい音楽を思いだす。式の間演奏された「カノンニ長調」と「イエスは人の望みの喜び」を演奏した二人のバイオリニストが奏でるハーモニーはとても美しく優雅で、天国を思わせるようなその音色は一生忘れられない。タキシードを着て微笑みながら自分を見ているハンサムなビルの姿。そして、二人が祭壇で誓いの言葉を交わした時の心弾む幸せな気持ちなど、目を閉じるとその日の幸せな瞬間を思いだす。

結婚式に続いて二人の特別な結婚披露宴は父の家で開催され、市内や州全体から多くの重要なゲストが出席した。ヘレンは披露宴で、ビルと踊りながら二人が将来共にする人生を想像したのだ。その時は結婚後の生活のすべてが完璧になると思えた。

結婚式の日に撮られた沢山の写真の中にはヘレンが今でも大切にしている写真があった。それは、二人が結婚式の衣装を着て父の家のバルコニーで手を握り合っている写真だった。初めてビルと恋に落ちたあのバルコニーでの写真だ。その写真は今でもベッドの横のナイトテーブルに置かれている。そんな幸せな瞬間を思い出しながら、ヘレンはその写真を手に取り懐かしそうにビルの姿をなぞり、ほろ苦く微笑んだ。

結婚後のビルは数年間完璧な夫だった。優しく思いやりがあり愛情深い夫に見えた。しかし、時が経つにつれヘレンを全く他人であるかのように振舞い始める。その都度ヘレンは話し合い、お互いの懸念を分かち合おうとしたが、ビルは一人にして欲しいと言うのだ。ヘレンはビルが自分自身のスペースが必要なんだと認識し、そんな時にはビルの言うとおり一人にさせた。そのような時間が少しずつ増えてきたものの、最初の何年かはどうにか幸せに過ごすことができた。ヘレンはその頃はまだ自分が世界で最も幸運な女性だと思っていた。深く愛した人との結婚生活は夢のように思えたのだった。

年月が経つにつれビルはビジネスマンとして大成功を収め、ヘレンはお金で買えるものは何でも手に入れることができるようになり、骨董品をそれまで以上に集め、お気に入りの慈善団体を支援することも増えてきた。結婚してからのヘレンの日常生活はビルが時々開催する社交的なパーティーや会社のための集会の完璧なホステスであることで満たされたが、それでも、ヘレンは毎朝早く起き乗馬を楽しみ、暇さえあれば地元のコミュニティシェルターや募金活動でボランティア活動に参加した。ヘレンは完璧な人生を夢見るだけでなく、それを実際に生きていたのだった。

ビルがヘレンに喜びを与えてきたそんな思い出が忘れられなかった半面、常に激怒し虐待するようになった日々も忘れることはできなかった。ヘレンはビルのあまりにも突然で、恐ろしいほど変わってしまった原因を探そうとし頭を悩ませた。初めは二人に子供ができない事がビルの怒りの原因かもしれないと思ったが、しかし、虐待するようになる随分前に、子供を持つことが不可能なことをビルは受け入れていたのだ。その後ヘレンは養子を迎えようと考えたが、ビルは同意しなかった。その頃当初考えていたよりもビルと自分との共通点があまりにも少ないことに気づき始めたのである。ビルは結婚前、自分は子供が大好きで、結婚したら子供が欲しいと何度もヘレンに話していた。しかし、ヘレンはビルが周りの親戚や友人の子供達に優しく接しているのを見たことがない。ビルが機嫌の良い時は、周りでハシャイデいる子供たちの振舞を大目に見ていたが、そうでない時は近づいてきた子供に対し、かなりの苛立ちを示していた。そんな時はいつもビルの行動についてヘレンは周りの人々に、夫は今日は疲れているのだとか、会社の仕事や大きなビジネス取引に取り組んでいるから少し精神的に苛立っているの、などと言って言い訳をした。また、バルコニーで会話をした時にはビルが乗馬は楽しいと話しをしていたのだが、一緒に乗馬をしようとヘレンが誘うと、忙しくて行けないといつも言い訳をし断ったのだった。

ビルの最も劇的な変化は1979年にビルの実の父親が入院している病院へ最後に会いに行った時から始まった。父親の死後、ビルは言葉だけでなく肉体的にもヘレンを虐待するようになったのだ。甘い愛情のこもった優しい言葉は、突然激しい罵りの言葉に変わり、いつも暖かく肌に触れていた優しい手は、突然ヘレンを壁に突き飛ばすか体を殴るかに変わり、優しい抱擁は、ヘレンを力任せに抱きつく仕草に変わってしまったのだ。情熱的な愛の営みは暴力的で自己中心的な行為になった。また、日毎に過剰に飲むようになり、飲酒が暴力を引き起こしたことを理解したヘレンは、あまり飲まないことをビルに提案したが、その行為は暴力と飲酒を更に加速させるだけだった。ヘレンが専門家の助けを求めることを提案した時もビルはそれを拒否し、飲酒の量はますます増えるだけだった。しばらくして自己防衛のために、ヘレンはビルには何も言わないことを選択する。

ビルがどれほど虐待的であるかを知った時、ヘレンは二人の間に子供が出来なかったこと、そして、養子をとらなかったことに感謝した。自分の子供達が夫によって虐待を受けることの恐怖と、そんな状況に子供達を置いてしまった自分の罪悪感を想像すると、耐えきれなくなるからだ。

暴力が続く中ヘレンはビルを理解しようとし、彼のストレスの原因を探ろうと努力した。しかし、ビルは家の外で何が起こっているのかを彼女に話すことは全く無かったのだ。ビルはヘレンにとって徐々に、解くのが難しいパズルのようになり謎に包まれた人物になってしまった。ビルは他人から見れば魅力的であるかもしれないが、ヘレンに対しては時が経つにつれて使用人であるかのように扱い始める。ヘレンが唯一確信できたのは、それが、ビル自身の父親の死と関連しているということだけだった。ビルと実の父親との関係はあまり良くなかったので、ビルが父親の死に動揺しているとはヘレンには思えなかったし、もしかしてビルは父親がまだ生きている間に、ひどい扱いをしたことに対して罪悪感を抱いていたのかもしれないとまで考えたが、原因は分からなかった。

当初、それは短期的なものであり、単に父親を亡くした悲しみの行動であり、その悲しみから立ち直れば虐待はやがて止まるだろうとヘレンは信じていた。残念ながらビルの虐待はそうたやすく終わらなかったのである。それどころか歳月が経つにつれて悪化するばかり。ヘレンが最後に考えたのはビルの傍から短期間でもいいから離れることだった。自分が居なくなれば妻の大切さを知り、初めからやり直そうと頼んでくるかもしれない。だが、ヘレンはそんな思いを完全にやり遂げることも無く、時にはビルの愛に満たされてしまい、短期間ビルから離れただけで家に戻ってきた。それに、ヘレンが結婚式での誓いを破りたくなかったのもその原因の一つだった。ビルは虐待の後でもかすかな良識とヘレンに対しての深い愛から常に許しを求めた。そして、その都度自分はその日から変わると約束し続けたのだ。二人の結婚生活が幸せである外見を維持したかったヘレンは、自分の結婚が失敗に終わってしまったなどと公に認めたくなかったと同時に、そのことで、恥を掻きたくなかったのだ。だからヘレンは無力な状態で毎日を過ごし、そのどん底の状態からどうやって這い上がれるのか見当もつかなかった。

ビルがヘレンの友達に無関心だった事もあって、ヘレンは長年にわたってあまり友達と連絡を取らなくなっていた。その上、両親が同じ街に住んでいるにも関わらず彼等の心を傷つけることを恐れて、家で何が起きているかを両親に話すことさえできなかった。実際ヘレンの両親は、完璧なペアの結婚を促したのは自分達だと信じていて、娘が苦しんでいるなどとは思ってもみなかったのだ。ビルとヘレンが外見を重視し、かなり慎重に行動していたため、ヘレンが抱えていた苦しみを周りの誰も知る由も無かった。

ビルは妻が多数の人々と付き合うことを望んではいなかったがヘレンには友人が数人いて、最も親しくしていたのはキャロラインだった。その他の友達は支援していたさまざまな慈善団体からの知人だけだったのだ。だから悩みを分かち合えるような親しい友達ではなかったのである。数少ない友達はヘレンのことを深く気にかけていたが、ヘレンは決して自分の秘密を明かしたくなかった。 長い付き合いであるキャロラインにさえも… プライドが高く虚栄心も強く、自分の私生活で何が起こっているのかなどを他人に知らせたくなかったのである。それに、心の底では自分が良い妻ではなかったのでは、子供を持てなかったからかも、そして、単にビルにとって相応しい人間ではなかったのではと、自分自身を常に責めていたからだ。

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ヘレンは震える体を両手で抑えようとしながらもう一度窓の外を眺めた。ビルが毎週金曜日の夜にあんなに酔いつぶれて帰ってきて暴力を振るうのは、多分ビルが今夜過ごした場所と関係があるのだろうと密かに思う。そして、その夜にヘレンが感じた恐怖心は徐々に増し、耐えきれない思いになった。ビルが金曜の夜を何処で過ごしているのかを確かめるために随分前に私立探偵を雇う事も考えたが、ビルに気づかれ復讐される可能性を恐れたため行動に移すことはできなかったのだ。

ヘレンは寝室のバーに向かって歩き、白ワインをグラスに注ぎ一口飲んだ。ワインの冷たさが喉を通り、体の奥深くまで伝わってくるのを感じる。それから、窓際に行き私道の明かりの揺らめきを見つめていた。ヘレンは絶望的な思いに誘われ自分を哀れに思い、無意識のうちに窓を軽く指で叩き始めた。

すると、リムジンの中でうたた寝していたはずのビルは、ヘレンの窓を叩く指の音で突然目を覚ました。初めは車の中に居ると思っていたが、驚くことにそうではなく、寝室の窓から私道の明かりを見下ろしているのだ。

「俺は寝室までどうやってこんなに早く着いたんだろう? ちょっと前までリムジンに乗っていたはずなのに…」と、ビルは呟いた。

Helen 4最初、ビルは私道で揺らめく薄暗い光を見つめていた。それから、寝室の窓に映る自分の姿を見つめる。ビルはそれを見て驚いた。その窓に映っているのは自分の姿ではなくヘレンの姿だったからだ。

「なんだこれは? 俺はきっと夢を見ているに違いない...」

その時、ビルは窓越しに自分が乗っているはずのリムジンから放つ光を見た。リムジンは家の玄関のすぐ前で止まり、ビルはもう一人の自分がその車から降りる姿を見て、その光景が信じられず息を呑んだ。

「どうしてこんな事があり得るのだ? まだ家に向かっているはずの俺が、なぜヘレンの体の中にいるのだ? これは悪夢に違いない...」

そして、ビルは窓の外を見続けるヘレンの体が震えるのを、自分の体でもあるかのように感じた。その上、家に近づいてくる自分を見た瞬間、ヘレンの感情が恐怖に変わる事も。ビルはどうしてヘレンの感情が分かるのか理解できなかった。ヘレンの恐怖は、ビル自身の恐怖であるかのようにビルの体を通り抜けたのである。ヘレンの脳裏に浮かぶイメージは、ビルが何度も何度も虐待していた時の事ばかりだった。その時ビルは「ヘレン、いや自分の体が震えているのは部屋の寒さのせいではなく、俺に殴られるのではないかという恐怖のせいだ」と初めて気づいたのだ。ビルは必死にその悪夢から目を覚まそうとし、体から抜け出ようとした。しかし、それは不可能だった。どんなにもがいても自分がハマってしまったその状態から、そして、これから自分に何が起きるのかという不安から逃れることはできなかったのである。

その上、ヘレンと一体化しているのにも関わらず、ヘレンの行動を全くコントロールできないことにも気づいた。ビルにできた唯一のことはヘレンの思考を視覚的にイメージし、それと同時に周りで何が起こっているのかを察し、その時のヘレンの感情を感じることだけだったのだ。ビルの魂はヘレンの中に閉じ込められていたが、ヘレンを思いのままに左右することはできなかったのである。突然大きな音を立ててドアが開き、かなり酔って帰ってきたもう一人の自分が、寝室に入るのをヘレンの目を通して見えた。

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翌朝目を覚ましたが、ビルの魂はまだヘレンの体の中に閉じ込められていた。ヘレンはビルの存在に全く気づくことなくいつものように目を覚まし、隣にいるもう一人の自分をベッドに残したまま静かに寝室を出る。その後、深く眠りについているビルを起こさないように、別の洗面所にシャワーを浴びに向かった。ヘレンはそっとネグリジェを脱ぎ、鏡に映る自分を見つめる。上半身の左側は昨夜のビルの殴打で、真っ白い肌に赤いあざが所々に見えた。鏡に映るヘレンの姿をヘレンの目を通して見、ビルは数時間前にヘレンがもう一人の自分の殴打に耐えていた恐ろしい出来事を突然思い出したのである。

ビルは昨夜ヘレンの目を通して恐怖、痛み、怒り、無力感を直接感じた。そして、今洗面所の鏡に映るヘレンを見て、ヘレンの虚しさと絶望感を感じたのである。ビル自身がヘレンの底知れぬ苦しみを引き起こしていたのだ。ヘレンは昨夜どんなにビルを恐れていても逆らわなかった。手を上げて殴った時には、ヘレンの心は深い悲しみと痛みに襲われていた。ビルがヘレンの体を通して味わった経験は、少年時代の記憶を突然呼び起こした。随分昔に同じような恐怖、酷い痛みを父から受けていたことを。自分があれほど父のせいで苦しんでいたのに、ビルはその事実をすっかり忘れていたのである。

へレンはガラスの壁にもたれてシャワーを浴びながら静かに涙を流した。数分後、傷ついた体を気遣ってそっと優しく洗い始める。温かい水が白い肌を流れ、慰めているかのようにも見える。その水が排水溝に消えていくのを見て唯々その水を追いかけ、この人生を終わりに出来たならどんなに幸せなことかとヘレンは思った。それでも、傷んだ体を愛撫するように流れる霧のような温水が、体を優しく包み少し気分が和らいだ。水を止めてシャワーから出ると真っ白いタオルに身Helen 5を包み、そして、その痛む体を気遣いながらゆっくりと拭いた。それから、明るく光る照明が施された鏡の前に立ち、カウンターに両手を置く。ヘレンは精神的にも肉体的にも疲れ果てていて、ただ立つことさえ苦しく思え、膝も体を支える力がないように感じた。頭はだらんと垂れ下がり、胸の苦しさにすすり泣き始める。「この苦しみをいつまで耐えればいいのかしら?」とヘレンは思った。

数分後ヘレンは少し落ち着きを取り戻し、ブロンドの長い髪を乾かす。そして、鏡に映る自分の顔を見つめた。幸いなことにビルは顔を殴打することはなかった。だから、金曜の夜に二人の寝室で実際に何が起こっているのかは誰も知らなかったのである。ヘレンは軽く化粧をし、そのあと、静かに寝室に戻りその隣にあるクローゼットの中で着替えた。傷が見えないよう黒い長袖のセーターで半身を覆い、長い足を誇張するようなオフホワイトのスラックスをヘレンは履く。

ヘレンがクローゼットの部屋を出ると、もう一人の自分はまだ眠っていた。ヘレンは静かに寝室のドアを閉め階段を降りる。その時でさえヘレンはビルの魂が自分の体の中に存在していて、自分の行動、感情を全部見通していることに全く気が付かなかった。

ヘレンは毎週土曜日に朝早く車で出かけ、ビルは正午まで寝ているのが二人の習慣になっていた。最もヘレンはビルが目を覚ます正午前には必ず家に戻っていた。不在の間、ビルがもし目を覚ました場合に備えて、世話をする使用人が必ず家にいることを確認するのもヘレンの習慣だった。腕時計を見ると午前7時10分だった。ビルが目を覚ますまでにまだ5時間ほどある。ヘレンは淡い黄色のコートとハンドバッグを手にし、急いでガレージに向かった。

そんな行動をしている中、ビルの魂はヘレンが心のうちで何か変わってきているのを感じ始めた。ヘレンの気分は徐々に明るくなってきている。ビルの知らない若い男がヘレンの脳裏に現れてくるのを見て、ヘレンがもう自分自身を哀れんでいないのに気が付いた。

ヘレンはジャガーに乗り込み家を出る。ビルは自分の妻が何をしているのかとても興味津々になった。なぜヘレンのムードが突然変わったのだろう? ヘレンが頭の中で思い描いていた男は誰だったのだろうか? ビルがそう思っている事など何も知らず、ヘレンはダウンタウンに向かって約10分運転する。その後、近くにある公園の南西のコーナーで車を停め、ヘレンはバックミラーに映った自分を見つめる。

「俺の妻はなんて美しいんだろう」とビルの魂は思い、ミラーに映るヘレンをじっと見つめていると、初めてヘレンと会った時のことを急に思い出した。親の策略とはいえ、パーティーでヘレンに出会い、心惹かれ恋に落ち、お互い思いあい希望に満ちあふれて結婚した。そして、結婚後も本当に幸せだった。しかし、ビルは何年もの間ヘレンをこのように見つめることは無かった。深く青い瞳はビルの魂をまっすぐに見つめ返していた。顔に触れたヘレンの細い指はとても優雅で唇は柔らかくふっくらとしている。突然ビルの魂はヘレンを固く抱きしめたい衝動にかられたが、それが出来ないことを思いだした。

ヘレンは車から降りて道路を渡り、公園沿いに建てられた新しいマンションに向かって歩き始める。そのマンションはビルの銀行が融資した物件の一つであった。ヘレンは二階に駆け上がりドアの一つを軽くノックした。