翻訳者:Yoko Galvin(前田洋子)

日本語訂正者:前田哲哉、前田かおる

 

第三章:デビッド

 

若い男が微笑みながらドアを開けた。

「ヘレン、君に会えなくて寂しかったよ」

「まだ数日しか経っていないわ、デビッド。でも、正直に言うとあなたに逢えなくて私もとても寂しかったわ」ヘレンは少し恥ずかしそうに答えた。

頬に優しいキスをしながら若い男はヘレンをマンションの中に迎える。その男の名前はデビッド、黒髪と日焼けした顔、ヘレンより数インチ背が高い。ヘレンは年齢の割にずっと若く見えたので二人は一緒にいても不自然さが全くなかった。ヘレンが部屋に入ってくるとデビッドは彼女を引き寄せ、しっかりと抱きしめる。ヘレンはそんな彼の腕の中で心の安らぎを感じた。そして、こんな瞬間が永遠に続いて欲しいと願うのである。

********

ヘレンがデビッドに初めて会ったのは2年程前「ル・シャトー」というレストランを訪れた時だった。エンターテインメント地区に新しくオープンしたそのフレンチレストランは、当初美味しい料理とトレンディな装飾でその街の話題になっていた。レストランのグランドオープン直後、ヘレンは友人のキャロラインからこんな電話を受け、それがレストランを訪れるきっかけとなった。

「新しいフレンチレストランに行ってみない? かなり良いレストランみたいよ」

「でもキャロラインがこの前勧めてくれたレストランはひどかったわ。メニューは平凡で音楽がうるさくて、あなたの話の半分も聞こえなかったの覚えている?」とヘレンはからかうように答えた。そして、

「本当にそのレストランに行きたいの?」と、ヘレンは続けた。

「勿論よ!それにハンサムなウェイターが沢山いるって聞いたわ」

キャロラインはヘレンと同じ年だが結婚には全く興味が無く、時々気軽に男性とデートしたいというだけのキャリアウーマンだった。そして、誰かと結婚するということは子供を一人育てるようなものだと思っていたのだ。報酬が殆ど無い他人の世話をしなければならないという生活は、キャロラインにとっては煩わしいものだったのである。

「キャロライン、あなたはデートの相手を探しているかもしれないけれど、私は結婚しているのよ。そのことを忘れてない?」

ヘレンは笑うのをこらえながら、わざと厳しい声でキャロラインに言った。

「ヘレン、あなたは本当に... どう表現したら良いのかしら... とにかく真面目過ぎるわ!」キャロラインは少し苛立った声で言い返した。

「えー、キャロラインは私の事を良く知っていると思うけど、その言葉を私に何百回も言ってない?」

それから二人は大きくため息をつき、同時に言った。

「君は真面目すぎる。友よ! もっと人生を楽しめ」

ヘレンはついに笑い出しキャロラインもそれに加わった。ヘレンは笑いを堪えながら、

「もしこのレストランに行くべき理由をもう一つ教えてくれるなら、私も行くと約束するわ」と、言った。

「えーと、ヘレンがいつもパリのレストランについて話していたのを覚えてる? 大晦日に一番思い出に残るディナーを食べたあの場所…」

「あー、あのレストランね。あの場所は一生忘れないわ。そこで物凄く美味しいオニオンスープを飲んだの。今まで味わった中で最高だったわ」と、ヘレンは数年前のパリの寒い夜を思い出しながら答えた。

「そして、それ以来あんなに美味しいオニオンスープに出会ったことが一度もないと、いつも文句を言っていたでしょう?」と、キャロラインは続けた。

「キャロライン、あなたの言う通りだわ。この街の5つ星のホテルでさえ煮尽くし過ぎていてショッパイ、ひどいフレンチオニオンスープを提供しているんだもの! パリで飲んだスープとは全く違うの。あの時のスープは新鮮で素晴らしかったわ!」と言うと、ヘレンはそのスープを思いだし口の中で熱く溶けたチーズを味わっているかのように軽く舌を鳴らした。

「ほら見て!そのフレンチレストランに行く理由がそれよ。一度は試してみないとわからないじゃない?」

オニオンスープを思いだした時に電話越しにヘレンが軽く舌を鳴らしたのを聴いて、キャロラインはついにヘレンを説得するのに成功したと心の中で思った。

「意地悪ね。あのオニオンスープが今すぐ飲みたくてたまらないじゃないの。それが本当ならそんなに待てないわ。すぐ行きましょう。明日のランチはどう?」

「それでこそヘレンだわ!早速予約をするわ。それじゃ明日の正午にそのレストランで会いましょうね!」

キャロラインはヘレンの大学時代からの親友だった。冒険が好きなタイプでレストラン、洋服、ショーなど常に街で何か新しいものを探していた。そして、毎日、新聞や雑誌に目を通し、興味を引く場所を見つけるとヘレンに一緒に行こうと誘った。

長いブロンドの髪と青い目をしているへレンとは異なり、キャロラインは短いブルネットの髪と深い茶色の目をしていて、その目はいついかなる時でも挑戦する覚悟ができているような輝きを持っていた。キャロラインはヘレンと同じくらい魅力的で、ある種の遊び心のある性格を持ち、自信に満ち溢れ、放送局員としての自分の仕事を非常に真剣に受け止めている女性だった。ヘレンが穏やかなタイプなのに対し、キャロラインは生き生きとしていていつも陽気に振舞った。そして、いつもヘレンを笑わせてくれるので、キャロラインと一緒の時間を過ごす事がヘレンは大好きだった。でも、ヘレンは自分の個人的な問題についてキャロラインに話すことはできなかったが… それでも、キャロラインのように長年心から気にかけてくれる人と一緒にいることは、たとえ悩みを相談できなくてもヘレンの心の慰めでもあったのだ。

翌日ヘレンは正午前にレストランに到着した。数分後キャロラインも加わる。ホステスがレストランの花壇をガラス越しに見下ろすことができるテーブルに二人を通した。そんな風景を見てヘレンはそのレストランが好きだと感じた。レストランのラベンダー模様で強調された白い壁のエレガントな装飾は、特にヘレンの視覚を楽しませた。その日は満員だったが、ゆったりと設置されたテーブルと椅子のおかげで、周りの会話に耳を挟まれることなく二人の静かな会話を続けることができる。また、この街でも数少ないクラシック音楽を楽しめるレストランの一つでもあった。ヘレンはうるさい音楽や騒々しい場所が大嫌いで、最近のレストランはあまりにもそんな雰囲気が多いと感じていたのだ。しかし、このレストランは何もかもヘレンの好みであった。

Illustration:Helen &Caroline at the table

二人がテーブルに座るとキャロラインは早々に、忙しくお客にサービスを提供しているウェイターについてコメントをし始めた。

「彼を見て!とてもゴージャスだわ。何て言ったらいいのかしら…」キャロラインはヘレンにウィンクをしながら言った。

「やめて、キャロライン。あなたは私に恥をかかせるつもり?」

 キャロラインがコメントをしたウェイターが注文を取りに来た。

「ここのオニオンスープは美味しい?」キャロラインが尋ねた。

「多分この街では最高だと思いますよ」ウェイターが答えた。

「それじゃあ、スタートとしてオニオンスープね。そして、メインコースは...  ヘレン、コルドンブルーはどう?」

「それでいいわ」ヘレンは静かに答えた。 ウェイターがテーブルを離れるとすぐにキャロラインが言った。

「うわー、思ったより彼ゴージャスよね」

「やめてよ! 私はスープを飲みに来ただけよ!」と、まるでキャロラインを子供を叱っているような口調で言った。 

フレンチオニオンスープは絶品だったのでへレンは満足な気分になった。パリで飲んだスープとほぼ同じくらい美味しかったからだ。メインコースの後ヘレンはレディースルームに行く。キャロラインはウェイターと二人だけで話したかったので、数分間一人で座っていることを全く気にもかけなかった。

ヘレンがレディースルームの近くにあるバーの角を曲がった時、偶然若い男性にぶつかり小さなハンドバッグを床に落としてしまった。その事を謝ろうとした時、若い男の何かが一瞬ヘレンの心を捉えた。若い男は優しい目でヘレンをじっと見つめながら立っている。ヘレンは言葉を詰まらせ顔を赤らめながら言った。

「御免なさい。私は時々軽率で失礼なことをしてしまう事があるの」ヘレンは少し恥ずかしそうに言った。

「いや、謝なければならないのは僕の方ですよ」と、やさしい表情で若い男は言った。 そして、しばらくの間ヘレンを見つめ続けた。目の前に立っている人ほど美しい女性は今まで見たことがないと感じていたからだ。ヘレンはその時、自分に良く似合うロイヤルブルーのミニドレスと真珠のネックレスを装い、とても印象的で、長いブロンドの髪はバーの鏡の上の光を反射して煌めいていた。二人とも何かに取りつかれたかのように唖然とし、その場に少しの間立ち尽くしていた。すると若い男はゆっくりと身をかがめてヘレンのハンドバッグを床から拾い、微笑みながらヘレンの手にそっと渡したのだ。その時、二人の指が触れる。ヘレンはさらに顔を赤らめ、若い男の笑顔を見るとなぜか体中に温もりを感じた。こんな風に心から自分に微笑む男性に逢ったのは久しぶりだった。そして、その若い男の指に触れた時からヘレンの胸がときめき始めた。

「ありがとう。私… そろそろ行かなきゃ…」ヘレンは若い男の肩越しに別の方向を見ながら言った。若い男はヘレンに何か言いたかったが、そんな事も知らずヘレンは洗面所の中に消えていく。そして、若い男はフロントの方に顔を向けると他のお客が何人か並んでいたので彼等を迎えるためにその場を離れた。

テーブルに戻った後、ヘレンの目は時折、客をテーブルに導く若い男の動きを追いかけた。そして、その若い男が二人のテーブルを通り過ぎる時に、ちらりとヘレンの方に視線が向くと、なぜか彼女の胸がときめいた。キャロラインはそんなヘレンの仕草を見て二人の間に何かが起きているのに気づき、ヘレンをからかい始める。夫のビルと付き合っていた時でさえ、ヘレンがこんな風に振る舞うのをキャロラインは今まで見たことが無かったからだ。ヘレンは美しい女性だったので、結婚後もどこへ行ってもヘレンの眼を捉え、気を引こうとする男性がいくらでもいたが、ヘレンは今までそんな男達の誰にも注意を払ったことがなかったのだ。

「ヘレン、あの若い男の人、またこっちに来るわ。彼は本当にあなたのことが気に入ったのね。私の知らない間にどこで会ったの? 彼を見てごらんなさい… 本当にハンサムだわ。でも彼は私のタイプじゃないわ」と、キャロラインは言った。

「何を言っているのキャロライン。そんな風に話すのはやめて頂戴!」ヘレンは一見苛立ったふりをして言った。

「ヘレン… 私達がどこへ行ってもあなたの注意を引こうとする男達がいやという程いるのよね。その一方、可哀そうな私。あのイケメンのウェイターともデートに誘うことができなかったの。どうしてヘレンはそんなに誰からも好かれるの?」とキャロラインはヤキモチをやいているかのように尋ねた。

「何を言ってるの? そんな風にからかわないで。知っての通り私は結婚しているのよ。デートの相手を探しているんじゃないって言ったでしょ!」ヘレンは少し罪悪感を感じながら答えた。

「でもヘレン、あなたはあの若い男性が気に入ったんでしょう? だって、彼がどこへ行ってもあなたの目が彼を追いかけていることに、私気づいちゃった… こんな風な仕草をしているあなたを今まで見たことがないわ。教えて ヘレン... ビルには内緒にすると約束するわ。あの人をどう思ってるの? 好きになっちゃったの? あの人がこのレストランのオーナーなのかなぁ... うーん、いや。彼はオーナーにしては若過ぎるわよね。じゃあきっとマネージャーかも、そうに違いないわ」

キャロラインは明らかにその若い男を鑑定しているように見つめながら言った。

「そんなこと言ったって私には判らないわ、キャロライン。それに、そんなことどうでもいいでしょう」と、ヘレンはきっぱりと言い、話し続けた。

「あの男性は私の過去にあった誰かを思い出させてくれるの。誰って聞かれてもはっきりわからないけど… ただ誰だったか思いだそうとしているだけよ。本当よ」

ヘレンはできるだけ平静を装い自分の胸の内を隠そうと下手な言い訳を言った。なぜなら、その若い男はヘレンが今までに出会った誰にも似ていなかったからだ。その若い男の目は黒褐色で、ほっそりとした体型は優雅であり、笑顔はとても印象深かった。そして、ヘレンを再びティーンエイジャーだった頃のようにさえ感じさせたのだ。ヘレンはその若い男を見るだけでなぜか胸の中が震え始めた。

***********

「彼が私の手に触れたとき、なんであんなに胸がどきどきしたのかしら?」ヘレンは心の中で思った。ヘレンが男性に対してこんなに胸が躍るのは久しぶりだった。

その後、このレストランでランチをしようと時々誘ったのはヘレンの方だった。そのことを期待していたのか、キャロラインはべつに驚いた顔もせずヘレンの望みに同意した。そして、このレストランは彼女達のいつもの待ち合わせ場所になったのである。幾度かレストランに訪れたある日、ヘレンが気にしていた若い男が二人を入り口で迎えた。

「こんにちは。またお会いできてとても嬉しいです」

若い男は魅力的な笑顔で二人を歓迎し、レストランの一番良いテーブルに案内する。そのテーブルは大きな窓際にあり、そこから池を見下ろすことができる素敵な場所だった。池の水は青い空を反映し、真ん中に置かれた飛び石は明るい太陽の光の中で際立って白く見える。池の周りは色とりどりの花畑や水やりをしたばかりの深緑の草に囲まれていた。その光景は絵に描いたように完璧で、それだけで美味しい料理と同様にレストランに来た価値があるようにさえ思える。そして、モーツァルトの音楽が店内に静かに響き渡り、落ち着いた雰囲気を醸し出していたのだ。二人は椅子にゆったりと座ると、キャロラインが自分達を特別丁寧に対応してくれた事を感謝するために若い男にこう言った。


「美しい景色を眺められるテーブルに通してくださり有難う。とても嬉しいわ。ここに来るのはいつも楽しみなのよ」

「どういたしまして。失礼でなければ自己紹介をさせてください。私の名前はデビッド、このレストランのオーナーです」と、デビッドは謙虚な態度で言った。

「こんなに若い人がこんな素晴らしいレストランを経営できるだなんて!」と、二人は心の中で思い、驚いた。

「私の名前はキャロライン、こちらの女性はヘレンです。彼女は私の大学時代からの親友なの」

ヘレンとデビッドの顔がやや赤らんでいるのに気づいてキャロラインは面白がってそう言った。

「お客様達がこの店の常連になってくださったことは存じています。わざわざこのレストランにいつも足を運んでくださり本当に有難うございます」と、デビッドは晴れやかな笑顔を見せながら言った。

「私達、このレストランがとても好きになったの。特にフレンチオニオンスープが本当においしいわ。 それが最初にここに来た理由なのよ。ヘレンはそのスープが大好きで毎週あなたのレストランで食事をしたいと言っているわ」

キャロラインはそう言ってヘレンがメニューの何が気に入ったのかをとりとめもなく話し始めた。

「そうね… 大好きだわ…」

ヘレンはもう少しで「あなたが」と、言いそうになったが、間一髪で言葉をにごした。

「だって、このレストランのフレンチオニオンスープが大好きなんだもの。パリで飲んだスープと同じくらい美味しいわ!」

「有難うございますヘレン。大げさに聞こえるかもしれませんが、あなた達はここ数年にいらしたお客様の中で最も美しい女性だと思います。あなた達がここにいる事自体が...こんなことを言うと失礼かもしれませんが、このレストランの美しい景色の一部になっているんですよ」

うっかり自分の本当の気持ちを表わしてしまった事に気づき、デビッドは軽く笑い少し恥ずかしそうに言った。それから、ヘレンをとても気に入っているように振舞い、ヘレンの一言一句、仕草にかなり気遣い対応しているようにも見えた。そんな行動はキャロラインから見てもヘレンから見ても明らかだった。しかし、ヘレンはこんなに若い男性が自分のような年上の女性に惹かれるはずがないと思っていたのである。それでも、ヘレンは初めてデビッドに逢った時から彼の事を思わなかった日は無かったのだ。ヘレンがまだ気づいていなかったのはデビッドが同じ感情を抱いていた事だった。

最初、デビッドはヘレンとキャロラインを他のお気に入りの女性客と同じように、少し遊び心を交えて対応していた。しかし、ヘレンに対する自分の感情が、逢う度に変化していることを強く意識し始めた。デビッドはヘレンが美しく知的であるだけでなく神秘的で恥ずかしがり屋であることを知り、もっとヘレンに惹かれた。数ヶ月後、自分がヘレンに恋をしていることを認めざるを得なかった。ヘレンの何かがデビッドの心を魅了したのだ。

二人がレストランで昼食をとるたびにヘレンはキャロラインより数分早く到着するようになった。デビッドと少しでも二人きりで時間を過ごしたかったからだ。そんな二人だけの時間はデビッドがヘレンをデートに誘う良い機会になった。ある水曜日、デビッドは昼食に一緒に行かないかと誘い、それを待ち望んでいたヘレンの心は弾んだ。しかし、自分は結婚しているからデートはできないと断った。デビッドに惹かれていたのは本当だが、既婚の自分が男性とデートするのは世間的に間違っていると知っていたからである。ヘレンが結婚していると知ってデビッドは最初は少しためらったが、そんな結婚が幸せなものではないと疑っていたのでヘレンのことを諦めなかった。なぜなら、ヘレンの仕草から自分にかなり気があるのだと確信していたからだ。この頃には二人のお互いへの愛情は成長しており、デビッドはヘレンが自分についてどう感じているかを探ろうと決心し、ヘレンがレストランを訪れる度にデートに誘った。ヘレンはというと心の奥ではデビッドに自分の事を諦めて欲しくなかった。何度も昼食の誘いを受け、ついにヘレンはデビッドの誘いを受け入れる事にした。

「土曜日の朝ならお逢いしてもいいわ。でも、散歩を一緒にするだけよ」と彼女は断言した。

「散歩だけでも最高です。一緒にお話しできればいいんです。それ以上は期待していません」デビッドは喜んでヘレンに言った。

そうして二人は、ある土曜日の朝10時にレストランの近くの公園で会う約束をした。5月の暖かい日で公園の木々は緑に輝き、花々が咲き乱れ最高の天気に恵まれた。デビッドは約束した時間より少し早く着き、公園の入り口でヘレンをワクワクしながら待っている。でも、ヘレンは時間がたっても現れない。デビッドは腕時計を何回もチェックし、5分が過ぎ、そして、10分過ぎたがヘレンは現れなかった。デビッドはヘレンが心変わりしたかもしれないと思いながらも、諦めきれず入り口の前で歩き回った。そして、今日はヘレンは現れないだろうと思い始めた。

一方、ヘレンはデビッドに逢うことを楽しみに服を着替え、車を出そうとしていたが、なぜか家を出る勇気がなかった。自分の良心がその行動を許さなかったからである。ヘレンはどうして良いか分からず苦しんだ。自分の夫は何も知らず、まだ、家のベッドで寝ているのだ。既婚女性は他の男性とデートするべきでは無い。それは道徳的に解っていた。ヘレンは少しの間車の中に座って、それでも行くべきかどうか悩んだ。だが数分思い悩んだあと、ついにデビッドに逢いたいという願望がヘレンの心を変え、車のエンジンをかけた。すでに午前10時15分だった。彼女が公園に到着する頃にはデビッドはもう居なくなっているであろう。それでもヘレンはそのチャンスを逃したくないと必死だった。デビッドに逢いたくて仕方がなかったのである。

車の中でヘレンはデビッドに逢いたいという自分の気持ちを正当化しようとした。

「だって私はもう長い間ビルを愛していない。最後にビルに愛情をもって接したことなんてあまりにも昔のことで、いつだったかも思い出せないわ。これまで何度も別れたいと思ったけれど、ビルはとても権力のある人で、とても怖い人だからそうできなかった。 離婚しようなどと言えば、ビルに殺されるかもしれないわ!」

ヘレンは深くため息をつき少し苛立ちさえ覚えた。

「私は間違ってないわ。本当にデビッドに恋をしているの。この気持ちはもう誰にも否定できない。彼に逢わなきゃ。これが幸せになれる唯一のチャンスかもしれないもの。それに、時間通りに帰宅すればビルは何も疑わないし、気を付けて行動さえすれば何も知られなくて済むわ。今日はただデビッドと散歩をするために逢うだけで、それ以上は何もないもの...」

「デビッド! 私を待っていてね…」ヘレンは祈り始めた。

その頃、公園の周りでデビッドは待ち続ける。

「ヘレンは来ないかもしれない。来るなんて思ったのは、僕の思い上がりだったのかもしれない」と考え始めていた。

諦めかけ、ちょうど公園を出ようとした時、ヘレンが目の前に突然現れたのだ。デビッドは喜びを隠せなかった。オフホワイトのドレスと紺色の帽子をかぶってあらわれた彼女は今まで以上に美しくみえ、その紺色の帽子が瞳の色を引き立てていた。その朝ヘレンは背中まである金髪の髪を下ろし、その髪は明るい日差を受けて輝いていた。

「ごめんなさい、デビッド...」ヘレンはなぜ遅れたのかを説明しようとした。

「ヘレン、気にしないでください。謝る必要はありませんよ。重要なのは今あなたがここに、僕の目の前にいることだから!」と彼は口を挟んだ。

デビッドのそんな態度を見てヘレンは彼と逢う事が正しい選択肢であったと感じた。その時のデビットの行動はとても優しくて魅力的であるだけでなく、非常に誠実で忍耐強い男性であることを示したからである。ビルとは全く違って… そんなデビットを見てヘレンは一瞬微笑んだ。デビッドはダークコットンのシャツにライトベージュのスラックスをはいていてレストランで逢った時よりも、もっとハンサムに見えた。 二人はそれから公園を流れる川に沿ってゆっくりと歩く。初めてヘレンに逢った時からデビッドはレストランの外で二人きりで話すこんな機会が欲しかったのだが、実際にその時になると最初に何を話せばいいのか戸惑った。そこで、自分の仕事の話でヘレンが退屈しないことを願ってレストランについて話し始めた。

 「知っての通り僕はレストランを経営するのが本当に好きなんですよ。どうして好きになったのかは良く説明できないけれど。もしかしたら叔父が市内に2軒のレストランを経営していて、僕が大学に通っている間よく手伝っていたからかもしれない。その頃からレストランを経営するのが楽しいと思い始めたので、大学の専攻をエンジニアリングからビジネスに変更したんですよ」

 「デビッド、あなたは正しい選択をしたわ。キャロラインと私はあなたのお店が大好きよ。とてもトレンディで何を食べてもワクワクさせてくれるんだもの。そして、混んでいてもプライベートの会話をするのに十分なスぺースもあるわ。でも、お店の一番の魅力はやっぱり料理よね。メニューの中の何を注文しても美味しかった。あなたのお店が伝統的なフランス料理を提供していることは知っているけれど、バターの味が濃い本格的なフランス料理よりも軽い味がしてとても美味しい。こんなに素晴らしくて人気のあるレストランを経営しているなんて、あなたは本当に幸せね」

 「ありがとうヘレン。君が僕のレストランを好きだと知って、とても嬉しく思います。でも、残念だなあ。君がうちの店に来るのは料理が目的じゃなくて、僕に会いに来てくれていたんだといつも思っていたのに」デビッドは冗談めかして言った。

 「それも理由の一つかも知れないわ」と自分に呟くように言うと、ヘレンは顔を赤らめて少し声を上げて話し続けた。

「若いあなたがどうやって、ル・シャトーのような素晴らしいレストランを所有し、経営できるのかキャロラインと私は不思議に思っていたの。キャロラインが冗談で、あなたがお金持ちの息子だからあんな素敵なお店を持つことができたのだろうと言っていたわ。そうなの?」ヘレンは少しからかうように尋ねた。

デビッドはヘレンの質問をわざと避け、逆に聞いた。

「キャロラインは僕達が今日ここで会うことを知っているのですか?」

ヘレンはデビッドが自分の質問を避けたことに少し驚いた。

「いいえ、キャロラインには何も言わないで来たの。だから、次に彼女に会う時は、今日のことは内緒ね。これは約束よ?」

「わかりました。約束します。でも、キャロラインは君の良い友達みたいですね。どこで彼女と知り会ったんですか?」

「大学時代からの友人なのは前にも話したと思うけど、キャロラインは私がここ数年ずっと連絡を取り合っている唯一の友人なのよ。ほとんどの友達はね、学校を卒業するとあまり付き合わなくなるのよ、特に女性は。結婚したら友情を保つのが難しくなるのよね。自分の家族の世話をしなければならないのと、お互いに連絡を取り合うほどの余裕がだんだん無くなるのよ」

「それじゃあ、僕は学校に通っていた時から付き合っていた友達なんか、もう誰もいないから女性なのかもしれませんね」

デビッドは微笑みながらヘレンをまっすぐ見ながらそんな冗談を言った。

「でも、あなたが友達と連絡を取り合えないなんていう言い訳はできないわ。世話をしなければならない自分の家族は、まだいないんでしょう? もちろん結婚しているなら別だけど。あなたはまだ若いし大学を卒業したばかりに見えるわ。どうなの?」

「答えは『いいえ、僕は結婚していません』『はい、2年前に大学を卒業しました』です。まあ、男性が卒業後もずっと学校からの友達を持つ傾向があるなら、僕は他の男性とは違うのかもしれませんね。もしかしたら、友達がいつもそばにいたいと思うほど人に好かれないのかも。まだ、誰にも知られてないけれど、もしそうならヘレン、まだ遅すぎることはありませんよ。 今のうちに僕をここに残して早く逃げることもできますよ。僕は他人から見ると付き合うのには全く不愉快な人間かもしれないから」デビッドは笑いながら、再びヘレンを見た。

デビッドと目が合うたびにヘレンは自分自身が体の中に溶け込んでしまうように感じた。 少しとまどってから、デビッドは真剣な口調で言った。

「ヘレン、個人的な質問をしてもいいですか?」

 ヘレンはデビッドが夫について尋ねるのかと思い、不安になって顔がこわばった。

「えーと... 個人的な質問? それは質問によるわね。私が何歳かと聞きたいなら絶対に教えないわ」ヘレンは緊張を隠そうとしながらそう答えた。

「いいや、ただヘレンの祖先はどこから来たのかずっと気になっていたんです。ヘレンの目はとても綺麗で僕はその目を見るのが大好きなんですよ。深い青色で、まるで僕の魂をこの体から引き離し、海の底にでも引き込んでいってしまうようにさえ感じるんです。その上、肌は白く透き通っていてとても美しいので、この世の生き物であることが時々信じられないんです。たとえ銀河系外の星の一つから来ていて完璧な地球の女性に変装しているのだとしても、僕はヘレンを見捨てないと約束しますよ」

「全く… なんて事を言うの、デビッド!」

ヘレンは笑うことを抑えきれず噴き出したが、デビッドのお世辞はヘレンを本当に心地良くさせてくれた。

「私はエイリアンじゃないから安心してね。えーと、母方の祖父母はスウェーデン出身で父方はドイツ出身なのよ」ヘレンは顔をもっと赤らめながら答えたと同時に、デビッドの質問が夫に関するものではなかったことに安堵した。

デビッドは質問をした時のヘレンが、自分に打ち明けたくない何かを隠していることへの表情の変化に気づいた。同時に、自分も過去についてヘレンに話すことを避けたかったのも事実だ。不思議なことにお互いに言えない秘密を持っていることがヘレンに対してもっと親近感を覚えた。


Illustration:Helen &David sitting on the bench

二人は川沿いの砂浜でベンチに座った。近くには犬と遊んでいる子供達が数人いた。その子供達の一人が川にボールを投げると、ゴールデンレトリバーが川からボールを拾い子供の手に渡す。ヘレンとデビッドは数分間そんな子供達の遊びを何気なく見つめていた。取ってこい遊びでその犬はデビッドとヘレンのすぐ近くまで走って来た。そして、びしょびしょに濡れた体をブルブルとデビッドにシャワーを浴びさせたのだ。まさかこんなことが起こるとは思っていなかった二人は顔を見合わせて笑い始める。川沿いにいた子供達もそれを見て二人の笑い声に加わった。

ヘレンはハンドバッグからハンカチを取り出し、デビッドの頬から水滴を優しく拭き始めた。デビッドはヘレンを見つめ、顔の水滴が拭き終わると彼女の手をそっと自分の手で覆う。そして、唇でヘレンの細い指に触れた。ヘレンは震え始める。こんな風に誰かに優しさを示されたのは久しぶりだったからだ。数分間、二人はただ手を握り合って静かに座り続け、胸のトキメキを抑えることができないまま… 何も言えなかった。

この時、ヘレンはついに運命の人を、自分の苦しみを伝えなくても解ってくれる人を見つけたと感じた。そんなデビットの手を握るだけで安心し、幸せを感じた。その日の朝から二人は毎週逢うようになった。ほぼ2年間そんな風に秘密のデートを続けた。ビルは二人の密会について何も知らなかった。ヘレンはデビッドといると心から幸せで、二人は最高のペアになったのだ。デビッドはとても優しく思いやりがあり、ヘレンを心から愛していた。ヘレンはデビッドが示す愛と同じくらい愛おしいと思っていた。この2年間でデビッドはヘレンについてのすべてを知った。ヘレンが街の権力者の一人と結婚していた事、長年に渡ってビルから身体的虐待を受けていた事、そして、もうビルを愛していない事。それをすべて知っていた上でデビッドはヘレンとの密会を続けた。デビットはヘレンと一緒にいる事に伴うリスクを知っていた。もしビルがヘレンの浮気を知ったら、おそらく二人を傷つけるだろう。だが、デビッドは自分達の交際がどれほどの危険をもたらす可能性があるかなど気にもかけなかった。そして、一度はヘレンと一緒に街を離れることも考えたが、それは自分がビジネスを売却し州外のどこかで新しいレストランを始めなければならないことを意味した。デビッドはそのリスクを冒しても良いと思ったが、ヘレンはそのあとのビルの仕打ちを恐れていたのだ。そういう訳でこの2年間、ヘレンとデビッドは自分達の将来に対して何の決断も下せなかったのである。

******

デビッドのコンドミニアムに逢いに来た土曜日の朝、ヘレンはビルの魂が体の中に宿っていることを知る由もなかった。廊下を通り抜けると、ヘレンはデビッドの腕に抱かれる。デビッドのコンドミニアムは真新しく、その中にあるもの全てがモダンに装飾されている。真っ白な壁、上品に配置された家具、そんな部屋のすべてがヘレンの心を弾ませてくれたのだ。さまざまな無名のアーティストの絵画がデビッドの家にエレガントにアクセントをつけていた。

ヘレンを腕の中に抱いたままデビッドはダイニングルームに入ると、その部屋には白い長いレースのカーテンから登り始めた朝日が眩しいほどに差し込んでいる。窓は少し開けてあり、部屋に漂うひんやりとした空気に淹れたてのコーヒーの香りが満ちていた。ダイニングルームのテーブルの上には細いクリスタルの花瓶にヘレンのお気に入りの黄色い薔薇が飾ってあった。ヘレンは花の匂いを嗅ごうと身をかがめテーブルの前に座った。デビッドはコーヒーを運びヘレンのすぐ隣に座る。ヘレンはデビッドの肩に腕を回し優しく唇を重ねた。その時、彼女の目から一筋の涙が落ちる。前の晩に感じたすべての感情がデビッドの腕に抱かれたときにヘレンの胸に蘇(よみがえ)ってきたのだ。デビッドは何も言わなかった。彼はヘレンがこんな状態にいる時にはそっとしておくことが一番大切なのだと十分に理解していた。

ヘレンの体に存在するビルの魂は嫉妬で荒れ狂っていた。まさか妻が自分が知らない間に浮気をしているとは夢にも思わなかったからだ。ビルは自分がヘレンを完全にコントロールしていると思っていた。それ以上に、ビルはまだヘレンを深く愛していたのだ。しかし、ビルは長い間彼女に対する愛を直接表現することができなかった。ビルの父が亡くなってから彼の中の何かが昔のようにヘレンに愛情深く、優しくあることを抑制していた。ヘレンを見るたびにビルは自分の心の内面とは全く逆の扱いをヘレンにし続けた。

デビッドに抱かれると、ヘレンの心臓の鼓動が速くなるのをビルは感じる。そして、デビッドがヘレンを見つめる愛情に満ちた視線を、止む無く見ることになった。ヘレンが他の誰かと恋に落ちたことをビルは受け入れることができなかった。ヘレンが愛情を込めてデビッドの体に触れていた時、ビルはもう耐えきれなくなり、しばらくの間ヘレンの体の中で意識を失った。

ビルが意識を取り戻すとヘレンがすぐ横で幸せそうに眠っているのが見えた。一瞬ビルは自分がどこにいたのか忘れてしまい、家の寝室でヘレンの隣に寝ているのだと思った。太陽の光がカーテンから差し込み、ビルは辺りを見回した。

「ここはどこだ? ここは俺の寝室では無い? なぜヘレンはこんな見知らぬ場所で俺の横にいるのだろう? 俺は夢を見ているに違いない」

それから、ビルはナイトテーブルの上の写真を見た。それは妻のヘレンが微笑んで若い男の腕に抱かれている写真である。その時、ビルはその若い男のことを突然思い出した。

「あいつは...あいつはヘレンを自分のマンションに引き入れた男だ」

ビルの魂は激怒した。叫ぼうとしたが口からは何も出てこない。

ビルの抑えきれない激しい感情にもかかわらず、その明るい部屋は静まり返っている。ヘレンはまだ隣で幸せそうに眠っている。そして、自分の体をヘレンに近づけ、ゆっくりと目を開けると、ヘレンはビルをまっすぐに見て、「デビッド...もう出かけるの?」

それを聞いて恐怖と驚きに震え上がったビルは、自分の魂が今やヘレンの体を離れデビッドの体に移ってしまったことにその時気づいたのだ。

「ヘレン、ゆっくりと休んでいけば?まだ時間はかなりあるよ。僕が仕事に行く前に新しいコーヒーを淹れておくね。それから、君の好きなデニッシュとフルーツが冷蔵庫にあるから朝食をとってリラックスしてから家に帰れば? ただ、家を出る時にドアをロックすることを忘れないでね。愛してるよヘレン... あとで職場に電話してね」

Illustration:Toumb stone

そして、デビッドは紺色のスーツに着がえ、静かにマンションを出た。ビルの魂が自分の体に潜んでいる事を全く知らずに… 車で近くの花屋に向かい、そこでデビッドは白いバラを3本買い、それから、近くの墓地まで運転を続け墓地の入り口に車を止めた。数分歩いた後、デビッドは2つの墓の前で立ち止まる。墓石の一つには、「死は天国への道を横切る影に過ぎない」と刻まれていた。その墓の前でひざまずき、デビッドは静かに目を閉じた。そうすると家族達を最後に見た日の鮮明な映像が一瞬デビッドの脳裏を横切り始めた。

 

******

デビッドはかなり裕福な家に生まれた。父はユダヤ人で1938年にナチスを恐れてドイツからアメリカに逃れてきていたのだ。初めの頃は貧しい移民の一人だったが、勤勉さと優れたビジネスセンスをもった父は素早く富を得ただけでなく、コミュニティでかなり良く知られるようになっていた。父はその後、富裕層だけが住んでいる鉄の門のある石垣に囲まれた大きな家を購入した。デビッドは幼い頃はあまり気づかなかったのだが、父を妬み、心から嫌う人々が街には多く存在していたのだ。彼等はデビッドの父の幸運をかなり羨ましく思い、かつて貧しかったユダヤ人の移民がこれほど裕福になっているのに、自分達は努力しても何も成し遂げられないのは全く不公平だと感じていたのである。また、ユダヤ人を嫌悪し排除を目指している組織があることに、その頃はまだ気づいていなかった。この組織はユダヤ人以外の人種も嫌っていたが、特にユダヤ人と黒人は彼らの憎しみの対象にされていたのだった。

******

あの恐ろしい事件が起きたのは17年前のことだ。デビッドはその時わずか8歳。12月のある寒い夜、悪夢から目を覚まし足音も立てず向かいの寝室に入った。デビッドの両親はその部屋で深く眠りに落ちている。デビッドがキングサイズのベッドに近づくと母が目を覚まし、ベッドカバーを少し持ち上げて彼を迎えてくれた。デビッドが悪夢を見た時には母はいつもそうして慰めてくれたのである。母に寄り添い温かい腕に抱かれると、その胸から温もりを感じた。デビッドは母をこんな風に近くで感じるのが大好きだった。そうして、悪夢のこともすっかり忘れ、深い眠りに落ちたのである。

デビッドがトイレに行きたくなり再び目を覚ました。眠そうな目を両手でぬぐいながら両親の寝室を出、隣のバスルームに電気もつけずに入る。暗闇の中デビッドはトイレの前に立ち水を流そうとした時、両親の寝室から何か物音が聞こえたのだ。その後、デビッドは6発の銃声を聞いた。そして、誰かが両親の寝室の中で話しているのも聞こえた。

Short Story 3.1

「こいつたちには、2人の子供がいる。今すぐ奴らも殺さなければならない」

黒い服に覆われた二人の男が両親の寝室を出てデビッドの妹の寝室に向かった。デビッドは早くどこかに隠れなければならないと思った。さもなければ男達は自分を探しあて殺しに来る。

心臓の鼓動が速くなる中、デビッドは両親のベッドの下に身を隠した。その後、更に3発の銃声を聞き、銃声が聞こえるたびに、体は震え怯えた。暗闇の中で恐怖と戦いながら何時間も身をひそめていたように思える。男達はその後も少しの間デビッドを探し続けたが、近所の誰かが銃声を聞いて警察に通報するかもしれないと恐れ、デビットを探すのを諦めその場を去った。

デビッドは家が完全に静寂に包まれるのを待ってから、ベッドの下からゆっくりと這い出した。月明かりの下で見た光景は、幼いデビッドには想像もつかないものだった。両親の体がベッドの上でぐったりと横たわっている。壁には血が飛び散り、ベッドのシーツには赤褐色に見える血があちらこちらに染みわたっている。デビッドはそれを目の前に見てかなりのショックを受けた。そのあと妹の部屋に駆け付け、ドアの近くで丸くなって倒れている妹を見つける。両親の部屋からの銃声を聞いてベッドから起き上がり、何があったのかを確かめるために妹は部屋を出ようとしたに違いない。妹の顔は恐怖の表情が残されたままで、それがあまりに恐ろしく見えたのでデビッドは大声で叫んだ。その叫び声が暗い部屋に響き渡る。それからデビッドは気を失った。

17年間、デビッドは悪夢を見続けた。17年間あの男達が戻ってきて自分を殺すかもしれないという恐怖と戦わなければならなかったのだ。その恐ろしい記憶は家族の墓を訪れるたびにデビッドの心を苦しめた。そして、白いバラの花をもって墓を訪れたその日も、あの夜に感じた無力感を何度も何度もデビッドは感じたのである。。その苦しみにデビッドの胸は怒りで一杯になり家族の墓石の前に跪いた。その怒りを収めるように、静かにバラの花を墓の前に捧げる。デビッドが家族のために白いバラを持ってくることを選んだのは、赤いバラが両親の血まみれの部屋を思い出させたからだった。家族が亡くなったシーンは将来決して忘れることができないであろう。

******

ビルの魂はまだデビッドの体の中に存在し、デビッドの痛み、悲しみ、怒り、そして、生き残ったことへの罪悪感をビル自身に起きたかのように感じさせた。勿論、ビルはその夜のことを明確に覚えている。なぜなら、ビルはデビッドの両親の家に押し入ったあの二人の男のうちの一人だったからだ。その事件が秘密組織に入ってからの最初に与えられた彼の任務だった。街の裕福なユダヤ人の家に侵入し家族全員を処刑すること ‐ それが、その秘密組織入会の条件の一つだったのである。だから、あの夜の記憶はビルから一生離れることはない。暗闇の中で石垣を登り、ガラスのドアの鍵を壊して暗い邸宅に入り、二階の寝室で眠っているユダヤ人を探し撃ち殺す。その興奮、そして、生々しい光景と血の匂いはビルの記憶から消し去るにはあまりにも鮮明だった。ビルがまだ若く暴力に渇望していた時、そんな経験はどれほどビルを興奮させたか言うまでもない。ビルが戦闘を愛したように。敵を殺すか殺されるかその一線に立つその刺激的な感情を忘れるはずがない。ビルはその時、生き残った幼い少年の気持ちなど考えたことは全くなかった。でも今、デビッドの記憶を通して感じた恐怖はビル自身の子供時代の痛みを急に思い出させた。ビルは突然めまいを感じ、そして、なぜ自分がこの悪夢を見続けているのか不思議に思った。自分の魂が他人の体に入ること - 最初はヘレン、次にデビッドの体に… ビルはこの悪夢から目を覚ますことを切望していたと同時に、次に自分に何が起こるのであろうかと恐れ始めたのである。

******

デビッドは墓地を出るとレストランに向かった。車が店に近づくと、どうにかつらい記憶を押しつぶし、その日に来るお客様のために何をする必要があるか考えはじめた。デビッドは店の経営を本当に楽しんでいた。レストランを自分自身が営むことが出きたことをとても幸運だとも感じていたのだった。勿論、自分の人生について常にこのように思っていた訳では無い。悲劇的な事件後は、長い間あまりにも恐ろしくて自分に自信が持てず、いつも周りを気にしていた。しかし、幸運にも叔父と叔母から養子縁組の話があり、彼等が自分達の息子のようにデビッドを育ててくれた。子供に恵まれなかった叔父と叔母は、デビッドを養子にすることは神からの贈り物だと喜んで迎えてくれたのだ。愛情を持ってデビッドの世話をしてくれただけでなく、叔父はレストランビジネスについてすべてを教えてくれた。叔父はデビッドの父ほどは成功しなかったが、それでもかなり有能なビジネスマンだった。デビッドは暇があるたびに叔父が経営するレストランを手伝い、店がどのように運営されているかを観察し、学んだのである。

叔父と叔母はデビッドを、できるだけ知名度のある学校に通わせた。ビジネスに関する実践的な知識と両親から受け継いだ生まれつきの才能もあり、デビッドは学校で常に良い成績を収め、州で最も有名な大学を卒業することもできたのだ。卒業式の日、叔父と叔母は誇らしげにデビッドのすぐ脇に立ち、その目には喜びの涙が溢れていた。

両親の遺言には自分達に何かがあった場合、デビッドが大学教育を終えた時点で全資産をデビッドと妹に相続すると書かれていた。それでもデビッドは卒業後、自分の財産の半分を叔父達に贈呈しようと試みた。長年に渡ってデビッドを自分の本当の息子のように面倒見てくれたことを心から感謝していたからだ。しかし、叔父達はデビッドの申し出を丁重に断り、すべてはデビッドへの愛情があったからだったと主張した。自分の申し出を受け入れてもらえなかったデビッドは、その代わりに後に叔父達が住めることを願って美しい湖畔に高価な家を密かに購入した。

デビッドは叔父のレストランでアシスタントマネージャーとして手伝っていた時、レストラン経営に情熱とやりがいを見出した。そう言う訳で父母からの遺産の一部を使い、街の古いレストランの一つを購入、改装し、「ル・シャトー」をオープンした。レストランはあっという間に成功し、市内だけでなく州全体からその店で食事をするために人々が訪れ始めたのである。